酷道 険道 廃道 廃校

2013年10月 7日 (月曜日)

杉並木に汽車が走る(下野電気鉄道)

                     <10月9日(水)加筆>

え~全国4000万人 3人くらい?の下野軌道ファンの皆様

こんにちは(*゚▽゚)ノ  オラです

 

オラの大切にしてる本「郷愁の野州鉄道」には、今となっては想像もできないような歴史が書いてあるのだが、あまりにも古いと年表記載のみになってしまい、写真が残っているケースは希である。

Photo

P254

↑ 254頁には下野電気鉄道(旧下野軌道)の歴史が記載されている。

 挿絵の写真にご注目!

あのユーメイな日光杉並木に汽車が走ってる!!w(゚o゚)w

想像もしなかったので心惹かれるじゃない! 

 

この写真がきっかけとなり 夢中になって下野電気鉄道を調べてみると年表にこんな記載があったので転記する。

1919年(大正8年)10月1日 大谷向今市-新今市間が開通

1927年(昭和2年)11月 新今市-大桑間の大谷向駅廃止

1929年(昭和4年)7月7日 新今市-大桑間に小倉町駅開業  東武日光線乗り換え駅

 

つまり簡単に言うと、東武が日光線を敷設する前には、東武の下今市駅(現駅名)とJR今市駅(現駅名)のあいだになんと連絡線が通っていたことになる。

 ここで「連絡線」と書いたが、実際は新今市新藤原間15.4㎞にわたる下野電気鉄道路線の一部であって経営母体や軌間(レール幅)は同一である。

ただし駅舎については現在の駅とはまったく別であった。

・新今市駅(鉄道院)の場合後述のとおり現在のJR今市駅前ロータリーに存在していた。

・小倉町駅は現在の下今市駅前広場に存在していた。

      

Photo_15

 ↑ ちなみにコレは現在(2013年)の路線図

 

それが…文献のとおりに直線を引くと

  ↓   ↓   ↓   ↓   ↓

2

 ↑ こんな具合に連結してたことになるんだよwww

目的は…ちゃんと書くと長くなるが、東武が日光まで線路延ばす前は日光方面への鉄道は国鉄のみであり、日光に向かう客の為に東武駅から国鉄駅まで「連絡線路」を敷設して客を回してたんだよね。

 

下野電気軌道(藤原軌道・下野軌道ふくむ)は藤原方面に既に軌道を持っていた。それは森林・鉱物を中心とした産業軌道であった。元々は下野軌道が下滝の発電所建設に伴う資材運搬の為に大谷向今市駅(現大谷向駅)から中岩駅(1922年廃止)の6.0㎞の営業を開始。その後藤原方面や今市方面に伸びていった。

1929年(昭和4年)、東武の日光線が下今市まで延伸されたの機に下野電気鉄道線との連絡を図り、小倉町臨時停留所(小倉町駅)を設置、さらに10月には東武日光線下今市駅構内に乗り入れ、同駅に起点を改めて下今市 - 新今市間を廃止した

  

つまり、路線廃止時の駅名でいうと 新今市-小倉町間を廃止したということ。

  

ふーん。なるほどね( ̄▽ ̄) なんとなくわかってきた!

それにしても、このあたりは仕事で何度も通ってるし、歩いたこともあるんだが今思い出してもそんな痕跡はなかったと思う。

 

ホントだとすれば(文献が正しい!!) スゲー!

幻の線路ってわけだ( ̄▽ ̄) 

つーわけで徹底的に調べてやろうと思っていたのだが、なかなか時間がなく半ばあきらめていたところだった。

でも今回 今市出身「幼なじみのW君」のご協力が得られ実施に至った。

 

調査目的は 文献や住民の方からの情報をもとに

連結線の軌道跡をトレースすること

そしてW君オススメのそば屋さんで

美味しい昼メシ食うことこの二つ!

  

それでは調査開始!! と行きたいところだが

まずは下調べということで

古い写真から線路の痕跡がないか調査してみた

19463

↑ これは1946年(昭和21年) 米軍が撮った航空写真

日光街道・例幣使街道の追分を中心とした今市の主要部分である。

 

国鉄今市駅から東武下今市駅間には線路らしき痕跡がない

年表からは昭和4年の廃線から17年後、拡大してみると「なんとなく」それらしいモノは写っているがはっきりしない。

2006

 ↑2006年(平成18年)航空写真  米軍写真の60年後

市街化が進みさらに判別不能。。。 というか新たな道路整備と区画整理によりJR今市駅側(上の写真では左下)では様相が一変しているのがわかる

    

オラはこーみえても下調べに余念がないのだが、、

今回ばかりは100%駅間を歩いてこの目で調査することにした。

 

---------------------------------------------------

2013年10月6日(日) くもり 湿度ムンムン

・調査員1 カブパパ(あ~先月ついに48になっちゃった爆)

・調査員2 W君 (カブパパの幼なじみ 小学校以来)

---------------------------------------------------

  

..。.:*・゜(n‘∀‘)η゚・ジャジャジャ~~~ン !!!!!

まずはいきなり結果発表する……  (手抜き研究)

ww結果としてこーなった ww

Photo_5

↑ 二つの駅間(新今市―小倉町)は直線ではなく弧を描くような曲線で結ばれていた。

 ただし 痕跡は多少残っていたものの非常に苦労した…

 ここでは以降あえて便宜的に「連結線」と呼ばせていただく

それではその調査の過程をご覧にいれたい。

 

まずはココから出発

●JR今市駅

Jr

002

↑JR今市駅   

 1890年(明治23年)開業 ここからスタートするわけだが

連結線の新今市駅舎とは違う。新宿や渋谷みたいに乗り入れていたわけではない。

003

↑文献によると 連結線の新今市駅は駅前ロータリー、この写真のあたりにあったものと推測する。おそらく間違いないだろう。

 

出発して今回の頼りはお年寄りからの情報収集

 (実際これが実に役に立った)

 

駅前で道路を履いてるご老人に話しかけた。

オラの風体をみてちょっと引き気味だったが、

「こんな調査をしてるので 知ってること教えてください」とお願いしら快くお答えくださった。(多謝)

線路はこのロータリを起点に現在の今市図書館(当時は畑)の北をかすめ例幣使街道を横切っていたらしい。

さっそく今市図書館方面へと歩く  テクテク

 

●今市図書館

Photo_6

004

 ↑ ここが今市図書館 北東のカド

  写真奥に見える並木が 有名な例幣使街道杉並木

 写真手前からあの杉並木方面に軌道は続いていたことになる

 

●竹美荘付近

Photo_8

006

↑ 先ほどのご老人からの情報で この竹美荘の北を通って例幣使街道を突っ切っていたらしい。

007

↑元来た道を振り返ってみる。

 軌道はほぼこの道路の向きに伸びており、写真奥の暖色アパートの手前から徐々に右に曲がっていった。

 

008

↑ ココが架橋ポイント (例幣使街道から「竹美荘」方面を見上げる)

 杉並木街道は江戸期の通例に習い側部より低くなっている。そのため軌道は橋脚の上に引かれていた。 写真のラクガキ スケッチのように架橋されていたと推測する。 

 

●日光街道側の架橋ポイント

Photo_9

009

 ↑ 例幣使街道ー日光街道間の軌道跡

今回最大の謎だった だがあっけなく住民からの情報で解明できた。 さすが地元民(感謝感謝である)

さきほどの例幣使街道(写真の奥に写ってる)を超えて日光街道まで続く道は大小2本あった。 同じような道幅であったため特定できないで悩んでいたところ、街道沿いの住民のかたが教えてくれた。

010

↑写真に見えるタイヤショップの右側の道(ちょっとこの写真じゃ判別しづらい…)から軌道は続き このあたりの杉並木を突っ切って日光街道と交差していた。

 (たしかにこの周辺だけ杉の樹齢が若い気がする…)

 

●旧病院方面へ

Photo_10

011

↑さきほどの延長線にある路地。100m直線を行くと住宅の門でつきあたる。おそらく廃線跡地に建てたもの。

012

↑軌道はこんな感じで直進していた。

右の明るい色の建物(病院跡)左側を通っていた。

 013

 ↑W君情報では40年程前には上写真の建物(さっきの病院跡)の脇には土盛りが残っていた。(おそらく築堤のあと)   軌道はこんな感じで通っていた。

014

↑ この不思議な建物は縦長の車庫 

細い路地の両脇にシャッター付の車庫が並んでいる。廃線跡地の利用方法として全国でよく見られる光景である。

写真正面方向は東武下今市駅方面 直線距離だと300mもない

 

●漬物店のあたり

Photo_11

015

↑ ココは駅前の漬物店の裏手にあたる。

 正面高い建物は東武関係のビル 軌道はココをとおり駅に向かっていた。

思い過ごしかもしれないが この写真中央のアスファルトレベルが左右微妙に違う気がした。

016

↑ さきほどの漬物店を 東武駅側から見る。 矢印のように軌道が伸びていた。

 

●東武下今市駅  やっと着いた……

Photo_12

017

↑東武鉄道下今市駅 1929年(昭和4年)開業  

島式ホーム2面4線をもつ見た目より立派な駅。 おそらく同じホームを共有していたはずである。

この下今市駅は東武日光線開通に伴い開業された駅である。

「連結線」の小倉町駅舎は当初この駅前ロータリあたりに存在した。その後東武日光線乗り入れに伴い廃止となった

駅前は廃れているとはいえ歴史が積み重なった老舗が軒を並べており、また東部関連の開発会社、不動産関連会社が多く、今市において東武がもたらした産業資本の潤沢さをうかがい知ることができる。

 

【後記】

今回の調査では、対象軌道の廃線化時期が古かったこともあり、その痕跡を見つけることは容易ではなかったが、地元住民の御親切なアドバイスのおかげで結果として完遂することができた。 もっとも興味があった「ふたつの街道をどうやって渡ったのか?」についても昭和50年頃までは橋脚跡が残っていたという証言をもとに場所を特定することができた。

 

満足な調査ができたので 腹が減った!! (不満でも減るけど…)

018

↑W君オススメの お蕎麦屋さん

019

↑クシャクシャになった地図。。 反省会

020

↑鴨せいろを頼んだ  

 なんか先週も鴨ソバ食ったきがするね。。。。。

  

021doctor

↑同行してくれたW君  ありがと~(*^-^)

  

最後に、

調査のきっかけとなった一枚の写真

杉並木を走る汽車

Photo_14

場所は特定できないのだが今市周辺の杉並木と思われる。

近所の農民? が手を振っている。

実はオラ 

この写真で感じたことは、SLや杉並木など古い物へのノスタルジーなんかではない。

産業開発といった国家の大目標の為には杉並木という歴史的財産などはいとも簡単に壊されてしまうということである。国家の成長期ってヒトと同じで いろんなところが痛くなったりするんだね~~。。

 

 

| | コメント (2)

2012年7月18日 (水曜日)

たまには ピンクな話

  

ピンクheart04  

なんか やーらしーねー (・∀・)ニヤニヤ

オラにとってのピンクとは

チキチキマシン猛レースに出てる プシーキャット操るミルクちゃん。

もしくは キューティーheart01ハニーだったりするわけだが。

エッチだが はっきり言ってどちらも子供向け。

  

今回のレポートは 真面目なオラには似つかわしくないが

大人のピンクlovely

-----------------------------------------------------

   

歴史にはいろんな側面がある。

オラ達が知ってるのは教科書に載るような表の歴史

かといってソレだけが歴史じゃなく、

もちろん裏面 お色気の歴史もある。

  

ひと口に歴史といっても

我がふるさと宇都宮にもいろんな歴史がある。大きくわけると

・二荒山神社の門前町として

・宇都宮城の城下町として

そして

・大日本帝国陸軍第十四師団の衛戍地として

  

以上のように宇都宮は遺構名所旧跡が多い。

町割り的には今でこそ東西南北に幹線道路が走り、整然とした街並みとなったが、区画整理が始まった頃は猥雑とした街並みが続き、特に宇都宮城の周辺には色町としての名残が濃かった。

それだけにオラみたいな変態歴史マニアにはたまらないところであるのだが

  

そのなかで今回取り上げる話 

宇都宮の 「遊郭跡」

 

遊郭というと古くは江戸幕府公認の「大人の遊び場」

(公認されていない場合は岡場所などと呼ばれた) 

つい最近まで「赤線」なんて呼ばれていたこともある。

 

オラが子供の頃は「●●町は赤線だから近づいちゃダメ!」とか

オフクロに言われたもんだ。 「赤線」の意味は解らなかったが 

そのあたりは風俗系の飲食店が点在していたため、子供心にも

「よくわかんないけど、近づかないほうがいいな」と感じたもんだ。

   

前置きがやたら長くなったが…… (オラの悪いクセ)

先日、そういった歴史を綴った文献を目にする機会があり

宇都宮には相当デカイ規模の遊郭が存在したことがわかった。

 

大体の場所は特定できたので さっそく調査に行ってきた。

---------------------------------------------------

18禁ネタなので 日時、場所などは伏せます

   

文献によると

場所はお城(跡)の南、 河原沿いの高台になってるあたりに「遊郭」を設けたと記載されている。

「遊郭」 

またの名を「新地」とも呼ばれ 東京の吉原、大阪の「飛田新地」などはこの現代にも残る遊郭である。( 現風営法に適合させた現代遊郭)

ちなみに宇都宮でも同じように「新地」と呼ばれていたらしい。

ちなみに宇都宮の遊郭は「亀遊郭」と呼ばれていた。

 ※亀は宇都宮のシンボルで市章にもなっている。

 もとは宇都宮城が「亀ヶ岡城」と呼ばれていたことに由来する。

  

おおまかな場所

Photo_2

↑ 文献に合致している場所がココ

 ①お城の南  (もちろん堀の外)

 ②河原の近く

 ③ちょっと高台

   

ヤフ地図で俯瞰すると

Yahoomap

↑ 赤のマーカーで囲われた部分。  特徴のある区割りだ。 

南北に走るメイン道路と東西に伸びる枝道

そのメイン道路は南端で行き止まり!

  

新吉原とよく似ており わざと通り抜けできないようになっている。

現在ここは●●町といい 明治初期は河原であった。

  

それでは 出発! Rock'n'Roll

お城の方(北)から遊郭跡を目指す。

  

いきなり!! 「新地」の文字が現れる。

Photo

営業はしてない? だが店構えは少なくとも20年以内にリフォームした感じ。

もしかしたら夜限定で営業してるかもしれない。

しかし…… わかりやすい(笑) 食堂

  

改めて 遊郭(新地)跡にいることを思い出させる。

  

信号を渡り  メイン通りをゆっくり歩くと(南下) 左手に

「どんだけ~~」って感じの建屋が現れる

 

 

Photo_3

↑ 怪しいよね~~`;:゙;`;・(゚ε゚ )ブッ!! つーか妓楼そのもの

朽ちてはいるがピンクの建屋に南国風の植物(ソテツ?)

あの妖しげな窓から オネーチャンが「おいでおいでheart01」してたのか?

  

正直 いきなり来たのでビックリした。

ナイフ一刺し目で 黒ヒゲが飛び出した気分だ。。

  

その隣(東側)には さらに怪しい雰囲気の建屋が

明らかに1階は顔見せだけで、2階で楽しんでた雰囲気。

Photo_4

↑ 見てちょーだい  大谷石づくりの出窓を

 

1_2

↑ オラ 建築の歴史が好きでいろいろ見てるが

  こんな窓 初めてみたよ。。 

   

メイン通りに戻り 突き当り方面に南下 

この建屋もピンクである。 まあピンクというかドドメ色というか。。

きっと……竜宮城ってこんな色してるんだろな。

さしずめ 娼妓は乙姫様?   まあ浮世とはよく言ったものである。   

Photo_5

↑多少生活臭を感じるものの、誰か住んでいるようには感じない。

ふいに視線を感じたので 窓から中を覗いてみると「細川たかし」のポスター。 なぜか警察官の制服を着ていた。 

他にも 割れた蛍光灯、マネキンの腕、大量の一升瓶。

廃墟ではないにせよ 今は倉庫代わりに使っているようだ。

   

「遊郭跡」を確認できたのは以上3つの建屋。

探せば他にも現存すると思われるが、町割りから想像できるのは相当大きな遊郭だったことである。文献にも最盛期には貸座敷16件、娼妓122名と記されている。

探せばもっとある!はずだが

なにせここは住宅地のド真ん中。 

派手にうろつくと通報されちゃうので足早に立ち去ることにする。

   

遊郭の周り(外郭)を調べてみる。

東端と思われる場所。

1

↑画像上方が北  

文献にも記載されていた通り明らかに高台である。

そーだな。 場所によっては5メートルほど高い。

 

文献では

妓楼の2階からは晴れた日は遠く太平山(栃木県大平町)が望めたらしい。

遊郭があった頃は 写真の白いガードレールあたりに「高い木の柵」が存在し娼妓の逃亡を防いでいた。

 

2

↑ この階段で下道に降りられる。

昭和33年の市街図には載っていない階段である。

昭和33年(1958年)といえば、4月1日に売春防止法が施行された年であり、江戸時代以来の公娼制度が廃止された歴史的な年でもあった。

  

ほんの30分前潜入開始したときは、興味本位のおっかなビックリだった。

だがこの町の空気に触れ、さらに妓楼跡をまじまじと見上げて、「吉原炎上」 「夕霧楼」など遊郭を舞台とした悲哀に満ちた物語が、この場所でもあったかと思うと、暮れなずむ遊郭跡がひときわ赤く感じた。

   

場所 

東武宇都宮駅から徒歩15分

JR宇都宮駅から徒歩25分

オラんちからヘリで2分

誤解の無いように言っときますが 

ちなみにオラは 大の風俗嫌い。。。 ホント

  

  

| | コメント (8)

2012年6月28日 (木曜日)

バイブルは鉄道の本

 

  

ここんとこ ツイッターにも飽きてきたし…… つか休止中( ´艸`)

 たぶん 普段は独り言然で「なにか」呟いてるだろーが、

文字に変換してまでつぶやく内容じゃないし。。

  

フェイスブックも同級生に勧められて始めたのはいいが、

始めた動機がそんなもんなので、必要というわけじゃないので

たまに見る程度かなあ。。

(それに使い方わかんないし…)  

 

まあ どーでもいいことだけど

確実にアイフォンを触る機会が増えたことは間違いない。

  

その反面 

確実に活字離れが進んでいるオラだが 

  

よく読んでるのがこの本

Photo

郷愁の野州鉄道 (大町雅美/著 随想舎 2004年)

オラの故郷 栃木県の鉄道史を綴った本である。

 

明治18年7月 

上野ー宇都宮間に日本鉄道奥州線(現東北本線)が

開通して栃木県鉄道の歴史が始まった。

基幹の国鉄以外にも東武鉄道をはじめ

多くの人車、軌道、未完線が出来ては廃止された。

 

弊ブログの「東武鉄道日光軌道線」「宇都宮陸軍航空廠線」

記事はこの本を参考にさせていただいた。

 

「廃線跡を追い郷愁に浸る」という ド変態にとっては

最高の バイブルである。`;:゙;`;・(゚ε゚ )ブッ!!

 

値段は高いんだけど(そりゃそうだよね 超マニアックだもん)

買ってよかったと思える本だ。

-----------------------------------------------------  

ちなみにオラが住んでる宇都宮市

今でこそギョウザで有名だけど…

明治から昭和40年代までは、建材としても有名な「大谷石」の産地であり、石切り場から街中の集積所まで蒸気機関車が通っていた。

また基幹線路から派生した無数のトロッコ軌道が宇都宮西部を中心に敷設されており、その線路跡の多くが「遊歩道」や「生活道路」として転用されている。

知らず知らず、線路跡を歩いているのである。

 

本の内容を少し紹介する

  

●オラんちの前の二車線道路は「東武鉄道大谷線」の軌道跡であり環状線を跨ぐように線路跡が残されている。

●桜小学校の南にはJR鶴田駅まで続いていた「旧宇都宮石材軌道」の線路跡がわずかに残されており生活道路として活用されている。

●その「宇都宮石材軌道」は現在の宇都宮地方裁判所を起点として、西に大谷街道を通り立岩方面へトロッコ軌道が走っていた。

●桜小学校から北へ(現在のパーラーマドンナ)を突っ切って付属小の校庭を横切り現在の中央女子高をかすめながら最終的には徳治郎まで伸びていた。 新里街道のろまんちっく村の手前には現在もはっきりと軌道跡が残っており土地所有者である東武鉄道の看板が立ててある。

●県立中央公園(元専売公社宇都宮工場)の南には「なかよし通り」の名で線路跡が遊歩道へと転用されている。

●旧陸軍宇都宮飛行場の旧線は記事の通り

-----------------------------------------------------   

こんなこと書いてると 汽車・鉄道に詳しいかと思われがちだが

(汽車ポッポのD51だとか、新幹線の●00系とか)

はっきり言って全然興味無し。

駅や線路端で写真撮ることもしない。(記録用で撮ることはある)

今走ってるのは今のところどーでもいい。

 

---------------------------------------------------- 

普段なにげに通ってる道、もしかしたら昔は汽車やトロッコが走っていたかもしれないね。

 

オラはいい歳こいて 動き回るのが好きだ

バイクもラッパ吹くことも大好き!それに友達と飲みに行くことも

 

でもこの本を持って廃線跡をあるくのはもっと好きだo(*^▽^*)o

    

|

2012年6月11日 (月曜日)

文明開化の鼓動 那須基線

  

  

オラ 10数年前になるけど栃木県北部の営業担当をしていた時期があった。

下図の地区担当。 思いっきり広い

北は旧那須町、南はさくら市まで

いわゆる【那須野が原】を中心とした南北35キロ東西20キロのテリトリー

Photo_2

↑ 【那須野が原】とは北の那珂川と南の箒川に挟まれた扇状地で、北西から南東に標高500mから150mに傾斜した台地。別名「那須野が原台地」とも呼ばれ、扇状地の中心には水無川の蛇尾川が流れる。

国内でも最大規模の扇状地である。

 

古来より水の便が悪く土地も痩せていたことから原人口も少なく、現在のように社会資本が充実し都市部が形成されたのも明治中期開拓民の入植以降であった。

そのため現在も比較的人口密度は低く矢板市、大田原、西那須野市、黒磯市間の幹線道路沿いには田畑と酪農地が目立ち、道路幅も県央の宇都宮市と比較するとゆったりと作られている。

入植民の努力と積極的な資本投資のかいあって、現在では栃木県随一の穀倉地帯であり、本州一の酪農地帯へと変遷を遂げた。

ついでに言うと 我が栃木の誇るスーパースターU字工事もここで育った。

言葉遣いは……あまりよくねーべよ。(爆)

 

そんな のんびり感が漂う地区でお仕事をしていたわけだが、

得意先間は最低でも5~10キロ離れており、効率よくまわる為に裏道(抜け道)を使っていたので今でも大概の抜け道は知ってる。

  

そのなかで いつも”不思議な道路”として印象に残っていたのが

通称”ライスライン”

大田原南部から千本松牧場に至る道路である。

 

何が不思議かって? 

この道 

約10キロに渡って まっすぐなのである。

まっすぐ区間  (赤いの区間)

Photo

↑ 日本国内じゃ(北海道除く)どんな道路も数キロも走れば

カーブがあったりするものだが、このライスラインは10キロまっすぐ。

(正確には10.6キロ)

 

Photo

 ↑ 道路に赤い線を引いてみた。。。。 まっすぐだよ^^

  

気になっていたので調べてみると とんでもない道だったことが分かった。

別名「那須基線」というらしい

 

【那須基線】

明治11年に設置された「測量基本線」のことで、明治政府が欧米の測量技術を導入して国土の正確な地図を作製するために、内務省主導のもとに三角測量の最初の一辺を定めた線らしい。

線なので両端が存在し、A点(起点) B点(終点)とすると

A点は大田原市南部 B点は千本松牧場のあたり

A点B点に高い木櫓(観象台という)を組んで進める際の目印とし、定規をつなげて図ったらしい。

10キロもの区間 大きな起伏もなく直線が確保しやすいという条件に【那須野が原】がマッチしていたことがここに基線を設置した最大の理由である。

 

そーいえば

オラも高校のとき三角測量をやったが、簡単に説明すると

最初の一辺(両はじ)を定め正確に距離を測れば、第3点地(目標点)は基線からの角度を測るだけで測量できる。

Photo_7

A点-B点間を定めることで、C点ーD点間の新たな基準線を設置

その後E点、F点を計測……… 

これを何度も繰り返すことで三角を増やしてゆき網の目ように全国を測量できる。

Photo_6

(図は国土地理院HPより)

だが…

残念ながらこの【那須基線】

全国測量の基線としては使われなかった。

なぜなら、当時は精密な地形図は軍事上の最高機密であった為、最終的に陸軍が定めた相模原基線が採用され、この那須基線は採用されなかったのだ。

しかしその正確な直線路はその後那須野が原開拓の基準線として役に立ったのである。

そして現在も渋滞知らずの抜け道として……

   

知らなかった。。。。 そんな由来があったなんて。

知ってれば…… 立ち●ョンなんかしなかったに。。 (爆)

--------------------------------------------------------

 

それでは【那須基線】

その足跡をたどってみる

2012年6月9日(土) 雨 しかもザーザー降り

・調査隊長 カブパパ(あと13年で定年)

・隊員    カブママ(疲れ知らず)

スタートはこの辺から

1

↑へんな名前の通り(笑) なんだよ! なんじゃもんじゃって。。

2

↑事前調査では正面の森に 観象台跡(南端)があるらしい

 

森の手前を右に入る。運送屋さんのカド

4

↑意外とあっさり あった。。

  

3

6

↑これが観象台の跡  標識は鉄の蓋の下にあるらしい。

 もちろん現在は使われておらずいわゆる「史跡」扱い

観象台というからには「天体観測」にも使われていたようだ。

 

5

↑その横には 現役の三等三角点がある。

 ※三等三角点とは   設置間隔は4㎞ 全国に32,000点設置 

  2万5千分の一の地図作成に使用される。

  

Photo_4

↑現在地

  

それでは直線10キロの旅に出発!

ひたすらまっすぐ どこまでもまっすぐ

 

7

↑この先の右カーブを曲がって 直線が始まる

 

9_1

↑実取(みとり)入口の交差点

 

Photo_5

↑現在地

 

10

↑国道461号(通称 野崎街道)との交差点

Ikku_2

↑現在地

  

 

11

↑新幹線高架の手前 下を走るのは東北本線(宇都宮線)

Photo_12

  

  

12

↑県道306号との交差点  左のスタンド 以前はシェルだった。

 

144

↑国道4号線との交差点 (二区交差点)

R4 

↑現在地

   

15

↑ 三区セブンイレブン付近

  

16_4

↑4区 養蚕神社付近

 

17

↑道が細くなる 

この手前でライスラインは大きく右に曲がり、上赤田交差点で国道400号と合流する。

Photo_14  

↑現在地

 

 

18

↑高速道路高架手前

Photo_10

 

19

↑高速の高架を潜ると 畜産草地研究所の東門

【侵入禁止】につき直進するのは諦める。

遠くまで基線が伸びているのが確認できる

Photo_11

↑ 上図の赤線のように 研究所内を通りぬけている

 

20

↑畜産草地研究所内 柵からカメラを突出し撮ってみた。

 正面の森の奥まで基線が伸びている

 

ここで一旦国道400号線に出て 畜産草地研究所の正面入口から

ほんのちょっとお邪魔する  ← ココ重要

 

ついに【那須基線】の最終ポイント 北端に到着する。 

21

↑基線終わり 正面の林の先は 千本松牧場

 

そして観象台(跡)を探す。

この地点が基線の北端だから、近くにあってもいいはずなのだが、周囲を見回してもソレらしきものが見つからない。

”ほんのちょっとだけ” 研究所内にお邪魔して林の中を探す。

カブママ調査員は国道400号沿いを探す。

  

雨が強くなってきたので足もとはドロドロ。。

スニーカーは浸水してブカブカして気持ち悪い。。

「あ~ どこにあんだよ~」(;;;´Д`)ゝと困っていたところ

カブママから着信、「カブパパ体長 あったよ~ すぐ来て~」

  

場所は【畜産草地研究所】の正面入口らしい。

  

なんと 国道沿い。。 塩原行くときは絶対通るじゃん。。 

知らずとはいえ何度この前を通り過ぎていたことか。

  

24

↑ちょうど入口の左側にあった。。  (右は千本松牧場)

 

これが北端の観象台跡

25

↑ 高さ1メートルの塚状  まるで古墳のような佇まいである。

 

26

↑傍らには水準標があった。 案内板によると以前はこの位置から南東50メートルの位置にあったと記されていた。

通常、水準標は移動しないので現在は使われていない可能性が高い。

 

22

↑ 那須基線北端から いままで辿ってきた道を振り返る

 今更ながら、この道がはるか10キロの彼方まで直線であることに改めて深い感慨を覚える。

 

この道が作られたのが 明治11年(1878年)

戊辰戦争という全国を巻き込んだ内乱から10年しか経っておらず、この栃木県内でも戦禍による荒廃と混乱から立ち直りの兆しが見えてきた時期である。

急速に西洋化を推し進める明治政府の方針とはいえ、よくぞこの荒涼とした台地に手作業で10㎞もの直線路を引いたこと。驚愕に値する。

 

当初の目的が果たせたので、カブママとお疲れさん会 

28

↑千本松牧場売店

せっかくここまで来たので「恒例の」ソフトクリームを戴く。

29_2

↑寒かったけど……美味しかった!

  

【編集後記】

今回の調査 道のカタチとしては「ただの直線」であり、しかもほとんどが現道として転用されており廃線跡のような「ノスタルジック感」は希薄であったが、風景を横目にクルマを走らせていると現代日本の黎明期における明治人の力強さをヒシヒシと感じることが出来た。

その後この道は明治中期から昭和初期にかけ、那須疎水引設の主要な物站道として活躍の場が与えられることになる。

長くなるので…

その話はまた今度。

 

どーやら風邪ひいちゃったみたい。ルルゴールドのんで寝よう(@Д@;

ゴホゴホ(||li`ω゚∞)

 

 

|

2012年6月 5日 (火曜日)

廃線を訪ねる 東武鉄道日光軌道線

2012年6月14日加筆修正

唐突だが 

 

下の写真見て ココがどこかわかる人はかなりの日光通

Photo  

東武博物館において、2010年10月から2011年1月まで開催された

「なつかしの日光軌道展」からの一枚である。

場所はもちろん 神 橋

 

日光に行けば必ずこの場所を通る。

それぐらいこの神橋は、東照宮とならんで日光のシンボル。 

ある意味、シンガポールの変なライオンよりもメジャーかも

 

上の写真見て なんとなく違和感があるだろう

それもそう 現在は線路などない ましてや

日光市内に路面電車が走っていたなんて

とても…信じられなかった。。。

   

地元民として、軽く日光のことを触れとくと

・日光東照宮を戴く徳川幕府の聖地として

・有史以来二荒山 山岳信仰の中心地として

・そして1999年の世界遺産登録

・2社1寺を中心とした華麗なる宗教建築の集積地として

様々な顔を持つ。

そして なによりも日光市民の住む町である。

  

それでは例によって例のごとく 

ヒマな2人で 忙しい中 現地調査を実施したのでレポートする。

------------------------------------------------------- 

【調 査 概 要】

上の写真は 東武日光軌道線といい

栃木県日光市の日光駅前から馬返を結んでいた、路面電車である。

1968年(昭和43年)に廃止されるまで、

観光客、市民、通勤 それぞれの交通手段として

「日光電車」の愛称で親しまれた。

 

運行路線は以下のとおり

0

↑赤い点線が路線軌跡  営業キロは(10.6㎞) 全線電化

 

歴史は 

・1908年(明治41年) 日光町と古河合名(古河電工)の合弁で開業

・1910年(明治43年) 日光電気軌道により日光駅-岩ノ鼻間 開通

・1913年(大正2年) 岩ノ鼻-馬返間 開通により最大長となる 

・1928年(昭和 3年) 東武鉄道傘下に入る

・1953年(昭和28年) 新型車導入 戦後の旅行ブームで客数最大に

・1965年(昭和40年) 第二いろは坂と金精峠開通 一気に客数減

・1968年(昭和43年) 1月 運輸審議会が廃止許可が適当とする答申

     同年     2月25日全線廃止

ちなみに廃止時の「日光駅前-馬返」間の運賃は70円だった。

  

余談だが昭和43年時の70円の価値は

かけそば一杯  週刊誌 ハイライトが買えた。

とても庶民的な価格設定であった。 

  

駅(停留所)は19箇所あり

その多くは国道119号、国道120号沿いに存在した。

一部は古河電工敷地内に存在し、通勤者の交通手段としても重要だった

  

能書きはこれくらいにして 探索をスタートする

-----------------------------------------------------------

2012年6月3日(日) くもり

 

調査員は

カブパパ (年齢詐称)

カブママ (年齢不詳) の2名

 

スタート地点の JR日光駅に降り立つ

Photo_2

相対式2面2線の地上駅 1890年(明治23年)開業だが

現在の駅舎は1912年(大正元年)のもので ちょうど100年。

多くの歴史を見守ってきた風情ある建屋である。

  

歴史ある廃線跡を探索するに相応しいスタート地点である。

   

【日光駅前から神橋まで】  

11_2 

出発点の日光駅前には上の図で示すようにループ区間となっていた。

国鉄日光駅前、東武日光駅でそれぞれ客をのせ 

現在の国道119号線(いわゆる日光街道)の真ん中を走っていた。

Photo_3

↑東武鉄道日光駅  現在の駅舎は1979年(昭和54年)に改築

この横断歩道付近が路面電車の停車場だった

  

Photo_4

↑ JR日光駅と東武日光駅前の道路

道路と並走するかたちでループ線があった。

 

Photo_5

↑東武日光駅前ロータリー

休日ともなると多くの観光客で賑わう。

ループ線区間の中心部と思われる。

 

Photo_6

↑石屋町付近から神橋方面へ

 中央の黄線あたりが線路だった

ここから神橋まで数か所の停留所があり市民の足として活躍していた

 

Photo_7

↑御幸町付近

ここに東武鉄道日光軌道 最大の遺構である

架線柱が現存している。

なぜここだけ撤去されなかったのは謎である。

 

 

やがて日光金谷ホテルを左に過ぎると

今回のレポートのきっかけとなった神橋があらわれる。 

Photo_8

↑多くの観光客で賑わうこの橋のたもとには

線路を通すための橋脚跡が現存する

Photo_10

 ↑昭和初期の写真と思われる 

Photo_32   

↑ 赤い点で 当時の鉄橋を描いてみた。

手前のコンクリート塊と川向こうの神橋袂のコンクリート塊が橋脚跡。 

12

↑ 上面からみると 大谷川に対してななめに架橋されていた 

   

加筆

Photo

 ↑日光市HPより 輪王寺側から日光市内を写す。

 画像左に車道(歩道) 中央に軌道 そして右端が神橋である。

    

【神橋から日光高校まで】

2

↑ここからは現道(国道120号線)に沿って軌道が敷かれていた

 

Photo_14

↑本町のコンビニ付近

軌道は右車線あたりを走っていた

Photo_15

↑田母沢御用邸付近

 この先 田母沢川橋に中央分離帯があり、軌道遺構が存在する

 

Photo_16

↑中央の赤い鉄骨が日光軌道橋梁跡である

 一見、道路の真ん中を走っていたように見えるが、

当時は鉄橋と人車橋は分かれていた。

 

Photo_18

↑軌道は安良沢橋手前Y字路を右折する

   

Araaswa

 ↑一旦右折して70メートル進んだ後 鉄橋を渡り現道に戻る

現道に再合流する地点は 現在とある団体の施設があり

取材することは難しかった。  

  

Photo_19

↑現在の荒沢(安良沢)橋

使われなくなって44年 今もひっそりと現存している。

 

【清滝 古河アルミ付近】

3ic

 

清滝への分岐点 300メートル手前に停留所跡

Photo_20

↑ ひっそりと置かれたベンチ 半分は朽ちている。

 藤棚柱には「時刻表」らしき鉄板が張ってあったが判別不明

 

120

↑清滝1丁目付近  

左が国道120号(清滝バイパス)  右が清滝方面

軌道はここを右に入っていく

Photo_21

↑昭和初期の古河アルミ前  写真奥が馬返方面  

軌道線が道路左に走っている。

  

清滝町に入った軌道だが

この先 複雑な進路をとる

 

【清滝桜ヶ丘から古河電工日光事業所】

41_2 

A地点 (桜ヶ丘)で現道をそれる

 

Photo_22

↑ A地点 この分岐を右に入る

 

Photo_23

B地点 この真ん中を軌道が走っていた

  

Photo_24

↑ C地点 清滝通りに再合流

Photo_26

↑D地点 清滝郵便局手前  

赤い線で示した方向に軌道が向かっていた。

一旦 古河電工の敷地内を走る

 

S23_2

↑ E地点(工場西側) 現在はこうして壁に仕切られているが

 赤線のように軌道が続いていた。

S24

↑ E地点 古河電工西の軌道跡 この先は馬返方面

   

 

【国道120号合流から 馬返方面へ】

42_2 

  

ここから清滝通りへ合流する

S25

↑A地点 修理工場付近 ここで合流し右方面に、向う

S26_120

↑B地点 軌道跡はまっすぐ正面を進んでいた

現在は一方通行となっており 左にしか進めない

S27_120

↑軌道跡を示すコンクリート製のガードレールが現存している

 

 

【豊川稲荷から馬返】

Photo_28

 

そろそろ終点の馬返が近づいてきた。 

この辺は単調な直線路が続く。

白いクルマのあたりが停留所

S28

↑ A地点 豊川稲荷付近  軌道は右車線あたりを走っていた

 

S29

↑B地点 馬返駅周辺 

 

S31

↑ 駅舎跡地には このような枕木が刺さっている

S30

↑ 現在 駅舎跡は柵で囲われている

Photo_30

昭和初期の馬返駅舎

 

Photo_29

↑昭和12年ごろの馬返駅  

日光軌道線の終点であるとともに

日光鋼索鉄道(ケーブルカー)の起点であった

大谷川を渡る鉄橋が見える。明智平までケーブルカーが走っていた。

  

この馬返駅 実はつい最近まで残っていた。

いや正確には オラが子供の頃 たしか小学2年生あたり(昭和48年)

なんかの駅ぽかったが 当時はまったく関心が無かった。

   

こうして日光軌道の本線 9.7㎞を辿ることができた。

 

事前調査で多くのHP、ブログを参考にさせていただいた。

なかでも 日光市図書館の資料が一番胸にジーンときた。

Photo_31

1968年(昭和43年)の日光市広報

市民に惜しまれながらも廃線となる日光軌道線の

最終運行(ラストラン)ニュース

Photo_33

↑ 記事を読むと 市民に愛されたことがわかる

廃止になって44年経つが

現在 50歳以上の方には乗った記憶や見た記憶があるだろう。

加筆

39630

↑空から見た日光市(昭和39年6月 広報にっこう)

日光街道ド真ん中を走る軌道と乗用車の様子がわかる。

      

線路なき今 当時の雄姿を留める軌道車が現存する。 

203

↑日光軌道203号  現在は東武博物館に保管されている 

車体の特徴からも 最終運行をしたものと同型であると思われる。

  

【編集後記】

 

帰り道 カブママと話した

「なんで路面電車やめちゃったんだろね」

「そーだね」「もったいないね~」

「今 走ってたらカッコイイのにね~」 

  

!!

 

そーなんだよ

「今 走ってたらカッコイイのに」!

 

だめだよね~ なんでも効率化で無くしちゃうのは。

観光資源ってのは 残して維持することが大切なんだから……

 

そこだけ残念だった。。。

 

帰りにカブママがお土産を買った

Photo_34

↑金谷ホテルベーカリー  ホテル真下の直売所

客は外人ばかり。

Photo_36 

↑人気のパンは売り切れていた。。。

でもシナモンロールを買ってきた。

金谷というだけで「スゲー! ウメー!」と感じる

これも日光の不思議さだろうか。。。。

  

|

2012年5月31日 (木曜日)

廃線を訪ねる 宇都宮陸軍航空廠線

  

  

25度を超える日が多くなってきた。でも木陰は涼しい

夕方7時をまわっても明るいし、

夜はちょっと窓開ければ天然クーラーが効いてる。

ホントに5月は過ごしやすい。

  

こんな時こそツーリング! と思いきや

以前から探索したかった線路跡を辿ってみた

-------------------------------------------------------

宇都宮陸軍航空廠線(うつのみや りくぐん こうくう しょうせん)

   

かつて東北本線宝積寺駅と旧清原村に存在した路線で

陸軍宇都宮飛行場および陸軍航空支廠を結んでいた軍用線である。

主に航空隊への物資、工員兵員の輸送を目的としていた。

  

ここで疑問、航空基地までの輸送ルートであるが

なぜ「宇都宮駅」ではなくて

「宝積寺駅」に接続したのか?である。

  

宇都宮は1907年(明治40年)、帝国陸軍第14師団が宇都宮(旧河内郡国本村)に」師団本部を設置されるや軍都として発展し、急激に軍需物資の集積量が増えた。

輸送ルートとしては、宇都宮駅から清原の陸軍飛行場まで線路を引いたほうが利便性が高いはずと思うほうが道理。

だが宝積寺駅と接続した理由としては、当時戦局の変化によりも本土内陸部への飛行場建設が必要となり、急遽陸軍主導で清原村の用地買収をしたものの、鬼怒川への橋梁建設には手間と時間がかかりすぎるという理由で、東北本線で鬼怒川を渡ったところに既存する宝積寺駅に接続した。

 

線路跡は現在も付近住民からは「線路道」「汽車道」の愛称で呼ばれ

その線路跡のほとんどが道路として転用されている。

 

---------- 歴  史 -----------------------------------

1942年(昭和17年) 敷設工事開始

1942年(昭和17年) 運行開始

1945年(昭和20年) 11月終戦に伴い廃止

 

・路線の長さ 宝積寺駅‐鐺山駅間 約11キロ

・軌道長   1067ミリ

・途中駅   なし   始点終点のみ

すべて非電化の路線であるため線路跡には架線柱は存在しない

  

Photo_12

↑これが終戦後1947年(昭和22年)の陸軍飛行場

赤い線が清原軍用線である。

飛行場の西側を南北に走っている。

画像右上の長い滑走路は1500メートルあり

かつて 陸軍が誇る

キー49百式重爆撃機”呑龍”も配備されていた記録がある。

 

ちなみに滑走路周辺で白くなって写っているのが 空襲の痕跡

クレーター跡までくっきり残っている

   

そしてこれが50年後の1997年(平成9年)の清原飛行場跡

H9

 ↑すでに飛行場としての面影はない。

飛行場敷地のほとんどは、宇都宮清原工業団地として整備され

野球場やサッカー場も建設された。

 

飛行場本部や飛行学校、兵舎だったあたりには

作新大学、宇都宮清陵高校が建てられ文教地区へと様変わりした。

 

しかし、くっきりと線路跡だけは残されている(図の赤い点線)

    

70年前 戦争激化の一途をたどる激動の昭和初期に思いをはせ

廃線跡の探索をスタートした。

--------------------------------------------------------

平成24年5月 

調査団長 カブパパ(46)

助手    カブママ(4?)

顧問   カブパパ父(73)

  

Photo_6

↑ ルートは 地図上の赤い点線を辿る(宝積寺方面に向かう)

   

Photo

鐺山(こてやま)の歩道橋  (スタート地点から南を見る)

  

Photo_2

↑ ここからスタート 北向き(宝積寺方面)に進む

   

Photo_4

↑100メートル進んだところ

むかって右側にホーム跡らしきコンクリート発見した

 

Photo_5

↑登ってみるとプラットホーム跡確認  

明らかに手前のコンクリートと違う 

敷設から70年経っておりアルカリ骨材反応(中性化)が進んでいる、

道路側では法面にむかって欠けたコンクリート片が多数落ちている。

 

戦後すぐの航空写真では このプラットホームが

南北100メートルに渡り敷設されていた。

Photo_7

↑ 現在地 

このプラットホームは軍需物資や兵員で溢れていたのだろう。

   

ここで寄り道する。

事前調査でだいたいの検討はついていたが

「この地に飛行場があったんだよ」という物的確証がほしくて

記念碑を探していたところ、”公園のどこか”にあるという情報入手

 

ただし、このあたり公園(緑地)だらけなので

とりあえず一番近い公園に入ってみる。

5

↑清原工業団地 1号緑地

 

6

↑公園となっている 人はまばら 

 300メートルほど歩いただろうか

 

7

↑ 行幸記念碑発見 !

昭和17年(1942)年、宇都宮陸軍飛行場(宇都宮飛行学校)で行われた、関東特別演習、空地連合演習を大元帥陛下(昭和天皇)が行幸された記念に建てられた。
昭和天皇が三笠宮殿下・東条首相・杉山元帥などを伴って行幸され、パレンバンに降下急襲して、占領した陸軍落下傘部隊と地上防衛軍の大演習が行われた。

   

8

↑傍らの石碑には 

昭和59年 100メートル北から現在地に移転したと掘られている

「100メートル北」とは、現在の作新学院大学女子短大

学校建設のために現在地に引っ越したらしい 

 

91

↑ カブパパ父とカブママ

 

Photo_8

↑現在地の緑地   もとは総務部本部発動機だったと思われる 

 

↑ 昭和17年のニュース映画

大元帥閣下(天皇陛下) 宇都宮行幸の様子を伝えている

   

だいぶ寄り道してしまった。。

再び廃線探索に戻り 宝積寺方面にクルマを走らす。

10  

↑ 同慶寺の300メートル手前

このへんは

「この道 もとは線路だったんだよ」と言われなければ気付かないほど

一見普通の道のようだが この真っ直ぐで平坦な道

まさに線路跡である!

  

12_2

↑道場宿  鬼怒通り(柳田街道)との交差点

 旧道は 現道の10メートルほど手前にある

本田技研工場進出に伴い、芳賀地区への交通量の増加に合わせ拡幅工事が重ねられ現在のルートとなる。

 

13

↑ 線路図と重ねてみると 

 右手に写っている工場の壁付近を走っていたらしい。

 

15

↑テクノ通りとの交差点

 余談だが、いまだもってテクノ通りの意味が解らない。。

東に本田技研の研究施設・工場があり 付随する工場施設関連会社が林立するが、この辺はただのド田舎である。

線路があったころは ただの原っぱだったに違いない。

 

16

↑ 清原北小学校の手前 

この辺はおよそ400メートルに渡って 車道と側道が同じ幅である。

もちろん廃線跡は左側だが、道路幅以外の線路跡を示す痕跡は見られない。

  

1710

↑高根沢に入る  県道10号線(宇都宮―烏山線)の交差点

 目的地の宝積寺駅までは1500メートル地点

 

交差点の先で二股に分かれる  クルマで通るとわかりずらい

18_2

↑ 現道は右だが 線路跡は左

 手前の緑地から旧道方面に真っ直ぐ線路が走っていた

 

19

↑今はほとんど人通りも無い

 

20

↑旧道の出口

線路跡は正面の緑地を突っ切って宝積寺駅まで伸びていた

この先700メートル進むと 東北本線との合流地点

   

21

↑高根沢西小学校付近の踏切

 このあたりから左の東北本線と並走していた。

22

↑ 正面に見えるのは宝積寺駅 (200メートル先)

線路跡は現在 遊歩道と自転車置き場となっている

(画像中央の赤い舗装路)  ※自動車侵入禁止

 

23

↑宝積寺駅  

清原線のホーム跡が歩道となっているのがよくわかる

Photo_10 

↑ 現在地  宝積寺駅に隣接するJAしおの阿久津支所の一部も線路跡だったと推測

   

敷設から廃止まで3年と10か月の短い期間であった。

 

太平洋戦争開戦より南洋で破竹の進撃をするものの

珊瑚海海戦で空母2隻を失いポートモレスビー攻略を断念した。

1942年7月ミッドウェー海戦直後の日本軍は最大勢力範囲に達したものの、それまで圧倒的優位にあった空母戦力が徐々に拮抗しはじめ、アメリカ海軍は予想より1年もはやく反撃を開始する。

本土空襲の懸念、絶対防空圏の弱体化が顕著になったころ設立されたのが「陸軍宇都宮飛行場」であり「宇都宮陸軍航空廠線」である。

まさに

戦争に翻弄された路線  

日本軍とともに散った悲しい運命を背負った路線であった。

  

  

              ― 編集後記 ―

 

余談だが 今回も参加したカブパパ父

オラと同じ遺伝子を持ってるだけに (当たり前だが)

かなりのレーサー野郎だった (クルマ専門だけど)

 

なんと

1960年夏 清原飛行場跡で開催されたレースに参加したらしい。

浅間レース終焉の後を受け、ロードレース渇望の発露となった宇都宮郊外の清原飛行場跡地。1周2.75kmの旧陸軍少年飛行学校滑走路(現在は工業団地)のコースは、砂塵の上がる走路も含まれ、視界を失ってコースアウトするライダーもいたらしい。

当時の写真(これはバイクレース)

Photo_14

|

2012年5月21日 (月曜日)

廃校をゆく 梶又小学校 石裂小学校

  

先日の栃木県塩谷町立熊ノ木小学校分校調査に引き続き

今日も廃校探索を行った。

    

そもそも 一口に「廃校」といってもその理由は様々である

 

指摘される理由といえば

①過疎地域における就学人口の減少

②学校制度の改革による統廃合

③「昭和の大合併」による学区再編成

④入学児童(生徒)の減少による経営資金難 (私学)

⑤行政の都合による廃村に伴う廃校

 

上記 代表的なものを挙げてみたが、

今回は 訪れた順番に

⑤の 行政の都合による廃村に伴う廃校

①の 過疎地域における就学人口の減少

上の2つの理由により廃校となった2校を訪ねた

   

------------------------------------------------------

5月20日(晴)

   

129年ぶりともいわれる金環日食に湧く宇都宮を後に

鹿沼市西部 上南摩地区に向かってクルマを走らせる。

 

本日の調査は オラ、カブママ古、そしてカブパパ父の3人

ちなみにカブパパ父(今年73)は顧問として参加

※職業は社長、身分は大学生である(シルバー大学2年生)

Photo_2

 ↑ 調査対象の2つの廃校を○で囲ってみた

 上の○が石裂(おざく)小学校  下の○が梶又小学校である。

航空写真で見ると 鹿沼市の中心部から10キロ以上山の中

一見 どちらも過疎による廃校と思いきや

この2つの廃校理由には明確な違いが存在する。

 

最初に訪れたのが「梶又小学校」

正確には 梶又小学校跡地である

 

この小学校は

先に述べた「行政の都合による廃村に伴う廃校」である

行政の都合とは

南摩ダム建設に伴い室瀬地区周辺が水没するためで

要はダムの底に沈んでしまうので壊してしまうということ。 

   

この南摩ダム 簡単に解説すると1964年の構想である。

思川開発の中核ダム建設事業である。

【建設目的】

思川流域の洪水調節、首都圏栃木県南部の水需確保。

流域河川に頭首工を設置して導水路で繋ぎ、効率的な水運用を図るというもの。

また水源依存をダムに転換することで、地下水汲み上げによる地盤沈下を防ぐという目的が発表された。

 

【ダムの規模】

中央土質遮水壁型ロックフィルダム

当初計画では 提高115メートル、総貯水容量142百万トン。

利根川水系では八木沢ダム、下久保ダムに次ぐ第三位の巨大ダム

 

【現状】

2001年、水没する76戸の保障交渉が妥結し、地元の代替地や宇都宮市への移転が完了したが、移転対象ではない3戸(ダム建設予定地直下流)が反対運動を続けている。

 

この頃は公共事業見直しの機運が高くなっており、東大芦川ダムも2003年当時の福田県知事の決断により建設中止となった。

こうしたことからも「思川開発」の中核として南摩ダムも建設継続の可否を巡る議論が展開され現在も、賛成派、反対派の狭間で揺れている。

利根川水系における最後の水資源機構事業として、同機構は平成22年の完成を目指しいたが、移転住民への代替地住宅造成、公民館建設、県道付け替え工事を実施しているものの、

ダム本体の築堤工事には着手していない

 

  ↑↑↑ 重要なのはこの部分、

 

まだ ダムは完成していない。

廃校、廃村、廃道、いっぺんにすべて見れるわけだ。

Photo_6

↑ 南摩ダム(予想図)と周辺河川

 

現場に到着するまでは

人っ子ひとりいない

荒涼とした山間部を想像していた。

  

それではスタート

東武鹿沼線樅山駅の西から県道15号線(鹿沼足尾線)を3キロ

南摩小学校の先を右折し県道177号(上久我都賀栃木線)を北進

田舎の県道にありがちな立派な2車線道路を西進

やがて一つの小学校が目に入った 

 

042

↑鹿沼市立上南摩小学校

目的地の「梶又小学校」から転校を余儀なくされた子供たちが転校した小学校である

 

043

↑途中には「ダム建設反対」の看板も

 この先に見える狭地の先がダム提体建設予定地である

 

046

↑ ま新しい石碑があった。

どうやらこの300メートル上流にあった神社が水没を逃れるため

移転してきたらしい。

 

045

↑ ご神体は木造の祠の中

灯篭自体は古そうだが礎石は最近のもの

 

047

↑提体建設予定地の付近

すでに県道付け替え道路のトンネルが完成していた

重機も数台ある。トンネル内の吹付工事か?

 

048

↑今日の南摩川は豊かな自然を象徴するかのように水量豊かである 

手ですくって飲めるくらい透き通っている。

 

049

地形からいってこの辺りがロックゾーンの最下部

↑ このまま工事が進んで、数年後にはこの辺りがダムの底になる

  

工事業者のHP 完成予想図があった

Photo_5

こうなる予定。。

 

050

↑北側斜面にも県道付け替え工事が見える

あの橋付近まで水位があがるわけだ。

 

さらに進むと一気に工事現場が多くなる

まさにダム底を進む道

052

↑ダム予定地はこの画像右上に見える峰あたり

 

053

↑ 上流から集めてきた水の誘導管

 

この周辺は広大な平地となっており、建物の基礎と思われるコンクリート塊を目にすることができる。

 

054

↑こんな看板も。。。

「ゴミ捨てるな!」はよくあるが、「動物捨てるな」とは……

 日本人のモラルも落ちたものだ。。

  

資料ではこの周辺に「梶又小学校」があったとされる。

055

 ↑遺構らしきものは確認できず。

Photo_7  

↑過去の資料、当時の写真からこの場所だと推測する。

  

Photo_3

在りし日の 梶又小学校

日本の原風景を思い起こさせるような校舎である。

・学校名 鹿沼市立梶又小学校
・住 所 鹿沼市上南摩町1083-1
・開 校 明治17年
・廃 校 平成16年3月 120年存続
・現 状 解体され更地 南摩ダム建設に伴い室瀬地区周辺が水没するため

 

すでに解体済みだったので廃校舎は確認できなかった。

残念だったが、それ以上に残念なのは

この豊かな自然がダムの底に沈むこと。

鳥の声、風の音、小川のせせらぎが

廃村の新緑に負けじと生命の息吹きを感じさせてくれた。

  

 

 

 

続いて 石裂小学校に向かう

 

さっき通った「ダム底の県道」177号をさらに北進

やがて県道240号とのT字路を左折

狭い山道を3キロほど行くと その廃校がある

こちらは「過疎地域における就学人口の減少」により廃校

つまり 通う子供がいなくなった ということ

言い換えれば「若い夫婦が住んでない」

町に出てったまま戻ってこない。 

田舎のよくある光景である。

 

石裂小学校

057

 ↑現在 校庭はバス停に使われている。 

056

↑明治の石碑  門柱の跡だと思われる

 

060

↑石裂小学校(おざくしょうがっこう)

・校 名  鹿沼市立石裂小学校

・住 所  鹿沼市上久我1681

・開 校  明治6年

・廃 校  昭和39年   91年存続

・現 状  公民館 (施設の一部を石裂・寄栗地区集会施設)

Photo_8

↑位置図  県道のドン詰まり  登山客くらいしか来ないところ

   

こちらは校舎が残っていてよかった。。

この校舎は開校の29年後 1902年に建替えられており 

廃校時で62年使用された。 

現在(2012年)からだと110年前の校舎となる

廃校から48年経っており、完全な廃屋となっていた

062

 ↑アジサイに囲まれた美しい校舎だったのだろう。

 

061

教室と廊下と思われる。

 

058

↑校庭の西側に 公民館(地区集会施設)が建っている

059

   

063

↑父とツーショット

それにしても 

子供のいない校庭というものは寂しいもの。

数十年前まで この校庭は子供の声で賑やかだったはずだ。

   

 

気付けば 時刻は11時30分

午前中に2校の廃校探索をしたので腹が空いた

鹿沼市内に戻りソバ屋を探す

    

066

↑父のおすすめのソバ屋  「みっちゃん蕎麦」

新鹿沼駅の真ん前

   

067

↑ 黙々と蕎麦を打ち続けていた。

 

064

↑鹿沼(粟野)名物  ニラ蕎麦

 手打ちのシコシコ蕎麦と シャキシャキの太いニラ

蕎麦の旨みと、ニラの食感がたまらない。

 

何も考えず「大盛り」頼んだが量は多かった。

とても美味しかった。 オススメ! 

065

 ↑父は普通盛り 

Photo_4

  

今日は父とカブママも含めて3人の廃校探索となった

学校というものは 地域で一番愛されているものだ。

愛すべき建物 それが校舎であり校庭。

姿は変われど こうして現代まで 残っていることが素晴らしい。

 

ダムに沈むということでなければ

せめて公民館や地域コミュニティー施設として

何年も存続してほしいものだ。

   

 

 

|

2012年5月16日 (水曜日)

熊の木小学校 西高原分校

 

 

 

みなさんは井上陽水の「少年時代」という曲をご存じだと思う。

.♪夏が過ぎ かぜあざみ 誰の憧れにさまよう青空に残された

 私の心は夏模様~♪ 

いいね~(*^-^)

オラは この曲聞くたびに思い出すことがある。

 

実はこんなオラにも少年時代の楽しい思い出があって

夏休みに父に連れられて行った「高原分校」

 オラや弟は「森の分校」と呼んでいた。

 

今でこそ林道ツーリング、尚仁沢、ハイキングと クルマで手軽に行けるようになった高原山系だが、当時(約40年前)は道も整備されてなかった。

何故そんなところへ行ったのか? 

いまだにオラもちゃんとした理由は知らないんだけど

たぶん父が今で言う「地域ボランティア」みたいなことをしてた関係だと思う。

過疎の教育支援とか なんとか

 

オラもいい歳になって記憶が薄れてきた昨今。

細かいことは思い出せない……(ノω・、)、

でも鮮明に記憶が残っていることがいくつかあって

 

 ・やたら空が近くて青かったこと (宇都宮の空に比べ) 

 ・村の子たちに「あっ都会の子だ!」的な好奇の目で見られたこと

 ・学校裏の林のなかでターザンごっこをしてケツから落ちたこと

 ・夜は分校の教室で寝袋並べて寝たこと。 

 ・外便所が怖くて ずっとオシッコ我慢してたこと

 ・宇都宮に帰る日、村のガキ大将に記念に「ミヤマクワガタ」もらったこと

   

  

正直言ってそーいったことはしばらく忘れていたが、

最近、高原山系を訪れる機会が増えるたびに

いつかあの分校を再訪問しようと思っていた。

   

事前調べによると「高原分校」は昭和50年に廃校になったらしい

とすると もう37年経っている。。 一部を公民館で使用してるとか

(正しい校名は 塩谷町立熊ノ木小学校西高原分校)

  

さらに調べると 

「分校」というからには もちろん「本校」が存在するわけで

本校は「塩谷町立熊ノ木小学校」といい

その本校も平成11年廃校になり 現状では 

NPO運営の「星ふる学校 くまの木」として利用されていること。

  

さらに 「熊ノ木小学校」には 「高原分校」以外に

「鳥羽新田分校」 「東古屋分校」という2つの分校が存在した。

最近の地図に重ねてみると

Photo_3

   

いっそのこと全部調べてしまえ~! ということで

助手のカブママ古をつれ 高原山系にむけて出発した

2012年5月12日(土) 晴れ

高原山は今日も美しい 

040

↑県道63号線から  ここから見る高原山が好きだ

   

最初に訪れたのがココ

042

熊ノ木小学校 (本校)

・学校名 塩谷町立熊ノ木小学校

・住 所 栃木県塩谷郡塩谷町大字熊ノ木802 

・開 校 明治7年

・廃 校 平成11年3月 124年存続

・現 状 NPO法人運営(現 NPO法人 星ふる学校 くまの木) 

  

門柱は廃校当時のまま 校庭は砂利 

建て替えもあったにせよ124年の貫禄が伝わってくる校舎

現在は宿泊施設と体験学習の場として利用されている

特筆すべきは天体観察

「星ふる学校」の名のもととなったのは 

shine日本で一番 星空がよく見えることに由来 らしー

    

044

↑ 東側の木造校舎

 画像右に見える白いドームが天体観測ドーム

 

045

↑ 廃校のド定番 「二宮金次郎」先生

  

古いものだから壊すのではなく、貴重なものとして後世に存続させてゆく方針に共感する。

 

県道63号線まで戻り 落合橋を渡り 鳥羽新田方面に向かう

  

次の分校はココ 県道63号線 ほうきね神社の隣にある

鳥羽新田分校の入り口

046

↑ 当時の門柱が残されている   表札は「公民館」

 

40メートルほど坂を登ると校舎が現れる 

048

鳥羽新田分校

・学校名 塩谷町立熊ノ木小学校 鳥羽新田分校

・住 所 栃木県塩谷郡塩谷町鳥羽新田

・開 校 明治20年

・廃 校 昭和43年 81年存続

・現 状 一部を公民館として利用

  

廃校後45年経つが現存している建屋は校舎の一部だと推測

入り口はサッシに変更されており、内部も整理されている

公民館として利用されているのもうなずける

   

049

↑さすが45年放置の貫禄 滑り台は2本あるが

上りの階段が消失。 雲梯、ブランコなどの遊具も残っているが

どれも朽ち果てていた。

 

となりは神社 いかにも歴史がありそう

051

↑ ほうきね神社 (箒根神社)

高原山の山岳信仰祭神を調べると豊城入彦命が祀られている。

豊城入彦命は東国へと赴任し、上毛野臣と下毛野臣の祖となったと伝えられているのですが、この豊城入彦命を豊木、ホウキと読んだことから箒の字を当てたのではないかと推測。

※尚、ほうきね神社は塩谷町内にあと数社存在する。

 

   

次も分校跡を訪れる

Photo

東古屋分校

・学校名 塩谷町立熊ノ木小学校 東古屋分校

・住 所 栃木県塩谷郡塩谷町大字上寺島

・開 校 明治34年

・廃 校 昭和42年 56年存続

・現 状 跡地を東古屋キャンプ場、駐車場として利用されている

 

林道ツーリングの際、デポ地としてトランポを停めている場所が

まさにココ!  知らずに停めていたわけだ。。。(苦笑)

 

Photo_2

↑ 画像右がキャンプ場、左が駐車場

釣りの季節には 大勢の釣り客でにぎわう

校庭跡と思われる現在の駐車場は湖面から3mも離れていない。

西荒川ダム(東古屋湖)完成が昭和43年、

当時は崖っぷちに校舎が建っていたことになる。

 

  

続いて…… そしていよいよ

 

ここからが今回調査のメインとなる 高原分校(西高原分校)である。

県道63号を鬼怒川方面に向かう。

 

途中、東荒川ダムを左に見ながら通り過ぎ 県道を1キロ北上

目印など何もないが、ナビはこの辺りを指している

  

県道63号線沿い それっぽい入り口発見

053

入ってみる  途中何度か迷ったが

300メートル進んだところの三又の真ん中の道を進む

(ちなみに画面右が玉生方面 )

 

054

↑ ついに着いた(≧∇≦)

 これが約40年ぶりに訪れた森の分校 「高原分校」だ!

(左側が校舎  右の一段低くなっている方が校庭)

感動して声が出ない。

いい歳こいて 震えてきたヾ( ̄0 ̄;ノ

 

校舎にたどり着く前に いくつかの遺構が現存する

ちなみに ↓↓これは 少しだけ記憶がある。。 

055

 ↑教師の宿舎 だと思う。。

当時の先生は本校の「熊ノ木小学校」からの派遣で

この建屋に住み込みだった。

056

↑中をのぞくと 今風にいえば2DK 風呂・トイレ付

まさに「ドクター陸のコトー」って感じである。

ガラスは割れており 畳には足跡が。

どこかのバカが侵入した形跡がある。(心霊マニアか)

 

そしてこれが校舎

057

高原分校

・学校名 塩谷町立熊ノ木小学校 西高原分校

・住 所 栃木県塩谷郡塩谷町上寺島 

・開 校 昭和32年

・廃 校 昭和50年3月 18年存続

・現 状 校舎の一部を 公民館として利用

  

オラもカブママもしばらくたたずんでいた。

不思議なもので 40年前の記憶が一気に蘇ってきた

オラの記憶 そのままじゃないか!!

  

記憶と大きく異なっている点は

「えっ 校舎ってこんなに小さかったっけ??」

 

きっと子供の目には大きい校舎に写ったんだろーな。。

062

 ↑ 一段低い校庭もそのまま  石垣も

060

↑廃校から37年 さすがに遊具も朽ちている

 当時この遊具で遊んだと思う。。 記憶はないが…

 

061

↑埋められたタイヤ  もちろん遊具としての「タイヤ飛び」の為

 よく調べたが パターン(溝) サイドのパターン名 サイズも

朽ち果てて読めないが、ブレーカーの欠け具合から

40年以上前のものと推測される。

※ 後日判明したことだが このタイヤ。

やはり父がボランティア仲間と数名で 

宇都宮から廃タイヤを運び埋めたものだった。

   

おっと忘れていた 校舎はどうなっているか…

校舎裏から中の様子を撮影する

059

↑校舎向かって左の部屋

公民館として利用されているようで きれいに整理されている

この床張の教室

ココに寝袋並べて寝たんだな~~

  

そうだ あの怖かった便所はどうした…

058

↑ あったよ~! 校舎の真裏に

屋根伝いに便所に入れるのだが 夜なんか怖くて怖くて…

お化けに遭遇するくらいなら 

オシッコ漏らしちゃう方がマシだ!

本気で思っていた。。。

 

 

  

たった18年しか存続していなかったことに驚く。

この過疎の地で 地域教育の中心として果たした役割は大きい。

大自然の大らかさに育まれた感受性豊かな子供たちが この小さな木造校舎から巣立っていったことを思うと 外観とは正反対の大きく立派な校舎に見えてくるから不思議だ。

そして現にこうして 「森の分校」を懐かしんで訪れる物好きもいる。

 

(オラだけど……なにか?)

 

今日は充実した一日だった

40年という時間の針が一気に回った。 回りきった

100%自己満足のレポートだったが

一番喜んでくれるのは父かもしれない。

 

この報告を 大好きな父に贈る 

 

|

2012年4月23日 (月曜日)

須花トンネル郡を訪ねる

   

   

見かけによらず (見かけの基準が曖昧だが…)

オラとカブママは廃墟ファン、同時に廃道ファンでもある

(やっぱり変態だ……Σ( ̄ロ ̄lll))

 

我が地元栃木県は林道のみならず廃道の類が多い

徒歩⇒荷車⇒馬車⇒クルマと

交通手段の進化とともに 峠道からトンネルに変化し

そしてそのトンネルも姿を変えてきた。

  

昭和以前につくられたトンネルは、モータリゼーションに対応しきれないばかりか構造が不安定なため順次廃止され歴史の片隅に埋もれてしまっている。

同時にトンネル開通以前に使われていた「峠道」に至っては、すでに獣道以下に成り下がっている箇所多数。

もちろん人の気配など無い。

ただその場所に立って

じっと目を閉じると……古の旅人の息遣いを感じる。

  

新コーナー

The abolished way  

地元栃木県やその周辺の廃道・隧道の類をレポートする。

(100%オラの自己満足)

 

 

記念すべきレポート第一弾は地元栃木県の

須花トンネル すばなとんねる

足利市と佐野市を結ぶ県道208号線に位置するトンネル

ほぼ同じ場所に 
明治・大正・昭和

3時代に渡り掘られたトンネルが現存する。

(現道は昭和トンネル   明治・大正トンネルは立入禁止…)

 

資料によると
--------------------------------------------------

明治トンネル 着工1881年(明治14年)  

               完成1892年 117メートル 素掘り

大正トンネル 完成1917年 82メートル 煉瓦アーチ

昭和トンネル 完成1980年 157メートル コンクリート  

明治14年だって……スゲー古!

海の向こうでは「第一次ボーア戦争」が始まったころだ。

敬愛するロード・ベーデン=パウエル(ボーイスカウト創始者)が

現南アフリカの部隊に赴任した時期。

こじつけだが 何かのご縁を感じる。        

--------------------------------------------------

 

(2012年4月22日 Sun)   天気予報は午後より雨

 

カブママ古を連れトンネル調査に出発

鹿沼経由で国道293号、田沼三好の交差点を飛駒方面へ右折

宇都宮から下道70分の距離

Photo

↑おおまかな位置(矢印)

古来 彦間地区(地図上部)から足利方面に抜ける道としては

これ一本であった。

(国道293号、50号が整備される以前)

    

上地図の ←矢印部分を拡大すると

Photo_2

 このようになってる

等高線が示すとおり 峠越えを回避するため隧道を掘ったわけだ。

ただ上の地図だと「明治トンネル」が表示されていない。

 

 

トンネル付近の案内板によると

5

↑世にも珍しい三世代同居のトンネルが描かれている。

  

こうしてオラが記事にするくらいだから

地元のみならず有名で、特に隧道ファンの間では

必ず一回は訪れたい場所となっている(らしい…)

  

3本のトンネル

これを地図にあてはめてみると

Photo_3

↑ ・昭和トンネル(現道) 

  ・大正トンネル(トンネルとして存在してる)

  ・明治トンネル(トンネルだけど行き止まり?)

このようになる。

 

 

写真で見てみる

Dsc00818_2 

↑明治・大正トンネルは車両進入禁止。 

 

明治トンネルは県道208号からは見えない

看板によれば「遊歩道」として整備されているようだ。

天気が悪いせいか山中特有の湿った冷気を感じる。

 

さあ~ 看板にしたがって「明治トンネル」に会いにいくぞ

Dsc00819

↑鬱蒼とした杉林  

日光杉並木など杉に慣れてるハズの栃木県民でもひくわ∑(=゚ω゚=;)

日中というのに「肝試し」状態だね  夜なら行けない(lll゚Д゚)

 

ちなみに カブママ古 すっかり探検隊の恰好。。 気合いバリバリ

この主婦 いったいどこへ行ってしまうのか(;;;´Д`)

(廃道調査の場合カブママじゃなくてカブママ)と表記 

  

明治トンネル

  

Dsc00822

遊歩道を200メートルも歩くと 明治トンネルに到着

木のバリケードは演出なのか? なんとなく「関所」ぽい。

定番の「コラ 入るなよバカ!」の看板。

 

Dsc00823

↑ 奥に光が。  トンネルはほぼ真っ直ぐ掘られている

まさに「素掘り」 

入り口付近の幅は約4メートル、高さは2.5メートル程か?

堅牢なる岩盤質にのみと金槌だけで掘り進めていった

明治の職人の息遣いが聞こえてくるようだ。

  

↑ ゲゲゲの鬼太郎に出てくるよね こーいう洞穴。

岩に「お札」とか貼られてたらビビるよね。。

 

Dsc00826

↑ しみじみ読んでしまった。 

「トンネルは地元有志が掘った」と書いてある。

昔のひとはエラかったね~Σ( ̄ロ ̄)

 

120年の時を超え、往来した旅人の足音が聞こえてくるようだ。

不気味さと霊気を堪能したところで

背中に風を感じながら明治トンネルを後にする。

 

次は 時代を追って「大正トンネル」に向かう。

Dsc00829

 ↑「大正トンネル」入り口   車両止めの奥に向かう

 

Dsc00831_2

↑ 歩くこと70メートル  大正トンネルに到着

 頑丈そうなトンネル口が姿を見せる。 (金網で完全ガード)

ちなみに 右矢印方面は峠道

Dsc00832

↑ 厳重に封鎖されたトンネル口から覗くと

整然と積み上げられた赤レンガ壁が現れる。

東京駅壁、小樽、横浜の倉庫群を思い起こさせる。

(こんな場所で異国情緒を感じてしまうオラは変態か?)

 

全長82メートル、幅約3.5メートル、高さ約3メートル程。

「明治トンネル」の荒々しい作りとは違い、文明の香りがする。

向こう側出口の「新入禁止」の文字がかすかに読める距離。

    

完成から100年経とうとしているが内部に崩落の跡はない。

トンネル中腹に残された「●●●参上!」の文字に

割と最近まで通行可能だった痕跡を垣間見ることができる。

(どこにでも こーいうバカはいるね…)

  

内部は(やたら)反響がよく、オラやカブママがつぶやいたひと言が

かなり遅れてトンネル内にこだまする。

これが地元で有名な「お化けトンネル」と呼ばれている所以だろう。

 

次は…順番からいけば「昭和トンネル」だが、

完成から32年経つこのトンネルに

今のところたいした魅力はないので割愛。(ある意味熟女ファン)

 

そして 本日の最終目的である

「須花峠」を歩いてみる。

大正トンネル脇の旧階段を上る(カブママ古は息切れ)

Dsc00834

 ↑ かなりの傾斜です。 まともな登山靴履いたほうがいい。

 

Dsc00835

↑ 急坂を上り切ると 湿地帯が現れる。

痛々しいカンバンに「須花坂湿原」と読める。

峠の中腹で、しかも傾斜のきつい場所の湿原はめずらしい。

写真右上より流れててくる「湧水」がこの場所を湿原にしているようだ。

 

Dsc00836

↑ ココは本来の峠道と違うが歩きやすいので行ってみる。

なんとなく両側から忍者が襲ってきそうな谷だよね。

  

Dsc00837

↑ ちょうど昭和トンネルの真上に出た!

高さ的にはまだまだ「峠の頂上」ではないが、

唯一見晴らしがよいところ。 もうちょっと先に行けるのだが

「慢性高所恐怖症」のオラとしてはここまでが限界。 

   

先を急ぐ。 峠中腹からさらに登るとこんな立札が。

Dsc00839

↑なんだか読めないが、かなり古いものだということはわかる。

この立札、坂道の途中にしては不自然に平地になってる場所に立っていることから、以前は祠が建っていたのかもしれない。

それに周囲に朽ちた木片が散在している。

ここは後日調査の対象である。

 

時刻は16時  

夢中で歩いていたら思いのほか時が経ってしまった。 

「夕方から雨」の予報のとおり頭上を黒雲が覆ってきた。

今日はココまで。

  

須花峠越えは次回持越しとする。

 

↓ 手すりも新旧並んでる。 さすが須花峠

Dsc00840 

--------------------------------------------------

3世代のトンネルが同居する須花坂(峠)

まるで

創業者である祖父が、子に仕事を引き継ぎ

孫が事業を拡大。 そんな感じか?

ついつい徳川三代を思い出してしまった。

 

現代では核家族化がすすみ 2世帯住宅が当たり前になり

親世代と同居を嫌がる嫁が増え さらに老人の孤独死と…   

隔世を互いに支えるかのように隣接するこの須花トンネル郡は

そんな現代を嘲笑うかのように 凛として存在し続ける。  (拝) 

   

 

|