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2012年6月

2012年6月29日 (金曜日)

アルゼンチンの日露戦争史を読んで想うこと

  

先日 元アルゼンチン海軍大将マヌエル・ドメック・ガルシアが書いた

『日本海海戦から100年―アルゼンチン海軍観戦武官の証言』

という本を読んだ。

100

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ガルシアは 大日本帝国聯合艦隊がバルチック艦隊を撃破した かの有名な日本海海戦(明治38年 1905年)において

アルゼンチン海軍「観戦武官」の立場で 装甲巡洋艦「日進」上から

歴史的な大勝利を観ることができた 数少ない外国人である。

 

彼の日本海海戦報告書はアルゼンチン海軍の機密文書として

ブエノスアイレスの海軍博物館に100年以上も保存されていた、東郷平八郎がとった戦術は、多くに国が手本としたように このアルゼンチンでも教書として使用された。

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その報告書が本になったおかげでこうしてオラも読むことができたわけだが、内容は単に「戦争を観てきたよ」という報告だけではなく、当時の世界情勢、日本の立場、日本人の国 民性、などを外国人の立場から率直に書いた歴史書でもある。

 

全部書いてはキリがないので要点だけ。

感銘を受けたのは

日本海海戦は「勝つべくして勝った!」 戦いだった

と記述があったところ。

 

一般的には、 

迫りくる世界最強のバルチック艦隊の脅威。

絶体絶命のピンチを「トーゴーターン」で敵をビックリさせ

大逆転で完全勝利した。。 くらい 

  (今の反日教科書じゃこんなもん  バカだね)

  

ガルシアの言う「勝つべくして勝った」とは全然違う

  

彼の記述をオラなりに簡単にまとめると以下である。

  

世界最大の領土を持つ帝政ロシア

領土拡大の野望は中国東北部まで及び、大日本帝国との利害が朝鮮半島で一触即発の状況。

日清戦争(明治27-28年)で勝利した代償として遼東半島を獲った日本に対し、ロシアは三国干渉をもってこれを奪い返し念願の不凍港を手に入れた。また主力艦隊を配備することで日本海の制海権および通商破壊をもくろんだ。

日本海海戦を遡ること10年前から 砲火を交えることなく日露の戦いは始まっていたのである。

全ての日本人はロシアの脅威を肌で感じ、また屈辱的外交成果の反省から海軍力増強を主体とした軍事力増強路線をとるのである。

 [中 略]

当時の日本はまだまだ極東の貧しい国であり、「陸も海もロシアには敵わない」といわれていたが、日本人には勝たなければいけない理由が明確であり、

「勝つためには何をすべきか」だけを元帥から水兵にいたるまで真剣に考えることができた。

ちなみに 

・海軍省は予算をちょろまかして(違憲だが)軍艦を買った。

・陸軍は激戦のうえ確保した203高地に据えた観測台から、旅順港のロシア艦隊を確認するや高崎山砲台の28センチ榴弾砲の直撃弾でコレを葬り去った(キングストン弁を抜いて自沈した艦もあった)

・旅順のロシア艦隊が無くなったことで、旅順包囲網が解けそのスキに呉・佐世保・横須賀の海軍基地において艦船の修復が可能となった。

・決戦までに3~4か月の準備期間がとれたことで、砲撃、伝達、信号といった実戦さながらの訓練ができたことと、黄海から対馬沖にいたるまで監視船配備ができた。

・政府は日英同盟(明治35年発行)を外交の軸とし、英国に反ロシア政策を働きかけることで、英国製艦船の輸入、バルチック艦隊の太平洋曳航作戦の妨害をした。

・英国は英国製石炭(高火力の無煙炭)をロシアには供給しなかったため、艦船の性能差(速度)に開きがでた。

・この間、国民は江戸時代に戻ったかのような前近代生活を耐えた。

 日露戦争の戦費は当時の国家予算(歳入)の7倍であり、会社でいえばとっくに破産していた。 政府は「勝つため」にあらゆる税金(酒税・タバコ税他)を増税した。

苦肉の策で「相続税」なるものが新設されたがまだそれでも足りず、大蔵大臣高橋是清は得意の英語を駆使し諸外国に赴き外債募集をおこなった。

日露戦争開戦当時は 誰も「ロシアが負ける」なんて思ってもおらず、日本に金貸すのは愚かだと思われていたが、旅順要塞陥落、ロシア旅順艦隊殲滅したころからは米国資本家を中心に出資者が増え続けた。 特にユダヤ系資本はロシア在住の300万人ユダヤ人保護と引き換えに出資を申し出た。

賭けでいえば四分六(4対6)、始めこそ(10対0)で話にならなかった賭けが、もしかしたら日本が勝つかな?レベルまで持ち直した。

無謀な借金であったが、「日本勝利」の為に国民が一丸となった。

  

なぜそこまで 

日本全体が盛り上がったのか。

盛り上がることが可能だったのか。

 

それは、

ほんの30年前までは江戸時代であり、国家という概念はない。

国家とは当時のそれは藩のことであり 

長州は長州人 薩摩は薩摩人 

殆どの日本人は 日本全体がどうなろうと知ったことではない。

  

やがて幕末の動乱期を乗り越え

明治政府が樹立され国体が定まると、日本人という概念が芽生える。

欧米列強のアジア進出を目の当たりにし 「やらなければやられる」は当たり前の時代。

「眠れる獅子」と恐れられた清は「眠った豚」と揶揄され、こぞって日本周辺にも欧米列強の侵略の手が伸びてきた時代である。

国を守るには戦うしかないのである。

  「戦わないと滅ぼされる」

近代日本が国の存亡をかけて戦ったのが日露戦争なのである。

  

そして運命の日本海海戦。

10年をかけて準備され、士気旺盛な大日本帝国海軍と

ロシア皇帝の命を受けたといってもイヤイヤ出港した(※)バルチック艦隊とではその差は明らかであった。

 ※ 帝政ロシア海軍の艦長以下士官は貴族階級であり、水兵は労働者階級であったため艦内では想像を絶する階級社会であった。このため勝利の褒章は貴族階級が独占し水兵への見返りは無きに等しくまた艦内の生活環境も大きな差があったため(特に食事)祖国の為に戦うという意識に乏しかった。(これはロシア陸軍でも同様であった)

 

邦軍監視船の早期発見によりバルチック艦隊の進路を把握した連合艦隊は、満を持して迎撃態勢にうつる。 ウラジオ港に逃げられないよう(黄海海戦の反省から) 敵の進路を塞ぎ一斉放火を浴びせる。

まさに「トーゴーターン」として世界の海戦史に名を残すその作戦は、偶然やその場の判断で生まれたわけではなく、完全勝利の方程式として必然にして当然の結果であった。

もちろん「下瀬火薬」「伊集院信管」といった高性能武器の有効活用も効果があった。

そして充分な砲撃(射撃)訓練の成果が、着弾地点解析を容易にし手早い距離修正が可能になった。 また砲の速射性能がロシアの3倍あったことにより、集中砲火の効果が倍増した。

以上のことから実際の戦闘能力の差は ロシア1に対し日本10

勝つべくして勝った とはこのことである。

  

ガルシア曰く

ロシアとの一番の差は 人の差であった。  

聯合艦隊司令長官の東郷以下、参謀、下士官、水兵にいたるまで 勝利の目的がわかっており、自分の役割と責任をはたし勝利に貢献した。

仮病を使う、ウソ(適当な)の伝令で見方を惑わす、敵前逃亡するといったことが日常であったロシアの船乗りとは根本から違っていたのである。

   

昔の日本人は凄かったなあ。

とにかく凄かった。

  

政治家から庶民にいたるまで国を想うことができた。

   

ふ~( ̄Д ̄;; たまの長文 肩凝った

  

弊ブログには あまり政治的なことは書かないのだが、

本を読み終えたあと ↓ 書かずにはいられなかった。

---------------以下乱文------------------------  

なにやってんだ 政治家は

国家の危機だってのに、選挙のことしか頭にないし

だいたい民主に政権任してから マニフェスト反故は当たり前

支那 朝鮮には弱腰外交でなめられっ放し。

おかげで日本の価値は下がりまくり。 

  

もしかして 

管は北チョンのスパイなのか?  ポッポはチャンコロの?

そうとしか思えない。

  

あっそうだ  もちろん

民主に票入れたバカ。 どーしてくれんだよおかしくなっちゃったぞ。

 

----------------- おっと 本音が出ちゃった 爆----------------

自民も民主も その他大勢ゴキブリも

この本読んでほしい

  自分のやってることが恥ずかしく思ったらまだ望みあり。 

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2012年6月28日 (木曜日)

バイブルは鉄道の本

 

  

ここんとこ ツイッターにも飽きてきたし…… つか休止中( ´艸`)

 たぶん 普段は独り言然で「なにか」呟いてるだろーが、

文字に変換してまでつぶやく内容じゃないし。。

  

フェイスブックも同級生に勧められて始めたのはいいが、

始めた動機がそんなもんなので、必要というわけじゃないので

たまに見る程度かなあ。。

(それに使い方わかんないし…)  

 

まあ どーでもいいことだけど

確実にアイフォンを触る機会が増えたことは間違いない。

  

その反面 

確実に活字離れが進んでいるオラだが 

  

よく読んでるのがこの本

Photo

郷愁の野州鉄道 (大町雅美/著 随想舎 2004年)

オラの故郷 栃木県の鉄道史を綴った本である。

 

明治18年7月 

上野ー宇都宮間に日本鉄道奥州線(現東北本線)が

開通して栃木県鉄道の歴史が始まった。

基幹の国鉄以外にも東武鉄道をはじめ

多くの人車、軌道、未完線が出来ては廃止された。

 

弊ブログの「東武鉄道日光軌道線」「宇都宮陸軍航空廠線」

記事はこの本を参考にさせていただいた。

 

「廃線跡を追い郷愁に浸る」という ド変態にとっては

最高の バイブルである。`;:゙;`;・(゚ε゚ )ブッ!!

 

値段は高いんだけど(そりゃそうだよね 超マニアックだもん)

買ってよかったと思える本だ。

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ちなみにオラが住んでる宇都宮市

今でこそギョウザで有名だけど…

明治から昭和40年代までは、建材としても有名な「大谷石」の産地であり、石切り場から街中の集積所まで蒸気機関車が通っていた。

また基幹線路から派生した無数のトロッコ軌道が宇都宮西部を中心に敷設されており、その線路跡の多くが「遊歩道」や「生活道路」として転用されている。

知らず知らず、線路跡を歩いているのである。

 

本の内容を少し紹介する

  

●オラんちの前の二車線道路は「東武鉄道大谷線」の軌道跡であり環状線を跨ぐように線路跡が残されている。

●桜小学校の南にはJR鶴田駅まで続いていた「旧宇都宮石材軌道」の線路跡がわずかに残されており生活道路として活用されている。

●その「宇都宮石材軌道」は現在の宇都宮地方裁判所を起点として、西に大谷街道を通り立岩方面へトロッコ軌道が走っていた。

●桜小学校から北へ(現在のパーラーマドンナ)を突っ切って付属小の校庭を横切り現在の中央女子高をかすめながら最終的には徳治郎まで伸びていた。 新里街道のろまんちっく村の手前には現在もはっきりと軌道跡が残っており土地所有者である東武鉄道の看板が立ててある。

●県立中央公園(元専売公社宇都宮工場)の南には「なかよし通り」の名で線路跡が遊歩道へと転用されている。

●旧陸軍宇都宮飛行場の旧線は記事の通り

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こんなこと書いてると 汽車・鉄道に詳しいかと思われがちだが

(汽車ポッポのD51だとか、新幹線の●00系とか)

はっきり言って全然興味無し。

駅や線路端で写真撮ることもしない。(記録用で撮ることはある)

今走ってるのは今のところどーでもいい。

 

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普段なにげに通ってる道、もしかしたら昔は汽車やトロッコが走っていたかもしれないね。

 

オラはいい歳こいて 動き回るのが好きだ

バイクもラッパ吹くことも大好き!それに友達と飲みに行くことも

 

でもこの本を持って廃線跡をあるくのはもっと好きだo(*^▽^*)o

    

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2012年6月26日 (火曜日)

ちいさないのち

 

 

オラらしくない”のほほん”記事(*^-^)

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2012年6月23日(土)

 

スタッフのW君から

「オレのクルマが えらいこっちゃ!です~!!」

との報告を受けて行ってみた。

   

ここは宇都宮 某ショップの駐車場

 オンボロ よく使い込んだジムニー  

  

W君(クルマの持ち主)からの報告によると

この廃車同然のクルマから異音が聞こえるらしい。

Photo_2 

↑ ワイルドだろぉ~!    

(近寄ってみるとさらにワイルドというより 不法投棄っぽい… 爆)

  

異音がするというエンジン部

  

異音といっても 「ガラガラ」とかの機械音じゃなくて

「カサカサ」 「モゾモゾ」 といった なんかいる系 

Photo_3

↑ (;´Д`A 恐る恐るボンネットを開けてみると………

  

  

  

 

Photo_4

↑ たまご発見!した     5~6個あるかな?

  

どーやら 親鳥(スズメ)が 抱卵してたみたいだね~o(*^▽^*)o

 

どこから入ってきたんだ? という話になった。

下から車体のスキマを辿ってココまで来たんだね~!

  

異音は10日前あたりからしてたので

そろそろ孵化だね(通常では13~14日)

   

それまでクルマ動かせないけど……

 

ちいさないのち だけど いのちだからね。heart01

このまま しばらく見守ってみましょう(o^-^o)

 

 

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2012年6月18日 (月曜日)

西荒川林道 謎支線

  

  

え~ 全国3人くらいの西荒川林道ファンの皆さんこんにちわ 

  (少ねーよ。。 爆)

この梅雨時 

路面がグチョグチョなのを承知で久しぶりにツートラしてきた(;゚∇゚)/

 

スコルパ(TY125 4T)の出動は5月5日以来40日ぶり

その間、プラグ換えたりオイル入れたり

レンサルのハンドルに替えたり、ステー類をアルミ化したり……

なんだかんだで2キロの軽量化に成功!!

(その間 オラは2キロ太ったが… 不摂生爆)

……。。   

あとは走るのみ!

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2012年6月17日(日) 朝のうち雨 昼にかけて30℃

「父の日」 カブパパ父へのプレゼントは昨日渡してきた。。

 

おなじみ「西荒川林道周辺図」

Photo  

↑今日は大滝手前の左に逸れる支線探索(通称:名無し支線)

名無しじゃ可哀想なので便宜上「謎支線」と呼ぶことにする。

  

カブ家のお庭

1

↑さあ~ 楽しい積み込み(o^-^o)

 いつも何か忘れるので しっかりチェック

  

2_2

↑1時間後 東古屋キャンプ場着 

タイヤ空気圧(F:0.7  R:0.7)  キャブ調整若干濃いめ 

雨上がりなので林道はグチャグチャが予想されるので

電気系統のマスキングを施す。 ブーツもガムテでシール

  

 

それでは入林

トラ車的に目いっぱいの50キロ前後で走る

泥はねがヒドイ。。 すでにウェアは泥だらけ

雨上がりだけに 林道は水たまりだらけ。。。

避けて通るより突っ切ってしまったほうがハンドル取られない。

3

↑5分後 謎支線との分岐点に到着 (正面が謎支線)

   

【謎支線】

以前から気になっていた支線だけど、林業関係者のクルマも見たことが無いし、そもそも「この分岐点に轍の跡が無い」

林に分け入るように林道は伸びている。    

しかし……軽トラ1台通るのもムリっぽ。

 

川沿いなので治水や水源管理目的で残されているだけか?

いくつかのハテナ? を想定するが

林道を覆い尽くす草木の繁りから

緩やかに廃道化が進んでいる様子がうかがえた。

    

獣道という名の藪に突入する。 

大自然の試練は いきなり急勾配から始まった。

 

第2いろは坂の最大勾配が約9%であるから

そーだな、平均勾配は20%以上あるかもしれない。

  

5分も走ると 左が川 右がガケの狭路を走る。 

普通のアスファルトだったら 勾配25度あろうが30度だろうがトラ車には関係ないのだが、ココはガレ場の急坂だから途中で止まると再発進が困難になる。

元河原だったのだろうか、ヘルメット大の岩が多くなりハンドルを取られるため、自然と両足が出る。

さらに両側から迫る藪で足もとが見え辛い。。

 

どこかに 「落ちたら死ぬで」の立札が落ちているに違いない。   

   

そして急勾配の先は 

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↑ 見事な崩落だった。。    崩落萌え~ヽ(*≧ε≦*)φ

 う~ん いいね~ この崩れ具合。

派手さはないけど、しっかり基本を押さえてある。

ある意味、廃墟萌え~に通じる。 

 

場所が場所だけに今後修復する予定もないだろう。

こうしてまた一つ 廃道がふえていく。

   

ココから先はさらに獣道化に拍車がかかる。 

(降りて路面を調べると2本の轍跡がついている)

  

以前は林業関係で使用されていたと思われるが、轍の幅が140~150センチであることから軽トラックしか通っていなかったことがわかる。

現在はこのように両側から自然の浸食を受け廃道化寸前である。

5 

↑ この先 しばらく写真は撮れなかった。。。

(つーか 降りて撮るどころじゃない。。 )

どんどん藪につつまれていく。 ちょっと不安 

こんなときアタマに浮かぶのが「川口浩 探検隊シリーズ」

「暗黒の魔境アマゾン奥地3000キロに幻の原始裸族を見た!!」

「密林の王者ターザンは実在した!!」

「恐怖の人食いトラ! スマトラに“密林の殺し屋”を追え!」!

 こんなのあったよね~~

どうしてカメラが先回りしていたかは別として

ワクワクして観てたもんだ。

  

今回はさしずめ

「恐怖の人食いトラ!高原山奥地密林に血に飢えたを追え!! 」

まあ そんなところか……

実際 トラがいたら、、、 イノシシ一頭いなかったけどね(笑)   

 

ゆっくり慎重に走らす。 

しだいに川音が大きくなってきた。 若干道も広くなってきた。

古びた堰堤に出る。

ここまでしばらく100%自然の中を彷徨っていたことで

このひなびた堰堤にさえ「文明社会」を感じることができる。

  

結局この先 ガケだったので 堰堤を渡り対岸にでる。

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↑ 渡ってみた。 意外と滑らなかった  

  

現在地確認、

iPhoneナビ、SONYのナビ ともに同じところを示している。

どうやら想定ルートから西に1キロずれていたようだ。

西荒川林道本線までは藪漕ぎですすむ。   

 (ルートは載せません 一応獣道でした ) 

  

やがて大滝の100メートル手前に出る。(ガケから降りる)

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 ↑ ふ~ ここで一服smoking 

山の中では こんな看板でもホッとするものだ。

   

西荒川林道本線を北上

今日は第一支線パス

第二支線もパス

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 ↑第二支線分岐でまた一服smoking  よく休憩する日だ

なにせ今日はシート外しているから(スタンディングのみ)足腰が痛い。。

 

そして 山の神林道へは寄らず一気に県道63号を目指す。

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↑ 「豊月平放牧場」まで駆け抜けた!

風が最高! 高原の乾いた風が 

汗まみれのジャージにぶちあたり冷たくてきもちイイ 

  

102

↑ 流れる雲を見ながら一服   30分間 ボーとする。

道にドカッと座り込んでブーツを脱ぐ。 あ~マジ気持ちイイ。

  

あとは戻るだけ

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↑ 1時間後 デポ地(スタート地点)に戻った。

とにかくドロドロ。。のスコルパ 

だが 今日も期待を裏切らない走りをしてくれた。  

山の中では最強!  街中では……ドン亀だけどね。

 

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↑ 気が付けば時刻は14時過ぎ   持ってきたお弁当を食う。 

全身使って 汗かいて 気の緩みも手伝ってか 

こーいうときは何食っても美味く感じるo(*^▽^*)o

    

   

今日もオラと遊んでくれた高原山の神様に感謝

さんくす♪(o ̄∇ ̄)/

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2012年6月11日 (月曜日)

文明開化の鼓動 那須基線

  

  

オラ 10数年前になるけど栃木県北部の営業担当をしていた時期があった。

下図の地区担当。 思いっきり広い

北は旧那須町、南はさくら市まで

いわゆる【那須野が原】を中心とした南北35キロ東西20キロのテリトリー

Photo_2

↑ 【那須野が原】とは北の那珂川と南の箒川に挟まれた扇状地で、北西から南東に標高500mから150mに傾斜した台地。別名「那須野が原台地」とも呼ばれ、扇状地の中心には水無川の蛇尾川が流れる。

国内でも最大規模の扇状地である。

 

古来より水の便が悪く土地も痩せていたことから原人口も少なく、現在のように社会資本が充実し都市部が形成されたのも明治中期開拓民の入植以降であった。

そのため現在も比較的人口密度は低く矢板市、大田原、西那須野市、黒磯市間の幹線道路沿いには田畑と酪農地が目立ち、道路幅も県央の宇都宮市と比較するとゆったりと作られている。

入植民の努力と積極的な資本投資のかいあって、現在では栃木県随一の穀倉地帯であり、本州一の酪農地帯へと変遷を遂げた。

ついでに言うと 我が栃木の誇るスーパースターU字工事もここで育った。

言葉遣いは……あまりよくねーべよ。(爆)

 

そんな のんびり感が漂う地区でお仕事をしていたわけだが、

得意先間は最低でも5~10キロ離れており、効率よくまわる為に裏道(抜け道)を使っていたので今でも大概の抜け道は知ってる。

  

そのなかで いつも”不思議な道路”として印象に残っていたのが

通称”ライスライン”

大田原南部から千本松牧場に至る道路である。

 

何が不思議かって? 

この道 

約10キロに渡って まっすぐなのである。

まっすぐ区間  (赤いの区間)

Photo

↑ 日本国内じゃ(北海道除く)どんな道路も数キロも走れば

カーブがあったりするものだが、このライスラインは10キロまっすぐ。

(正確には10.6キロ)

 

Photo

 ↑ 道路に赤い線を引いてみた。。。。 まっすぐだよ^^

  

気になっていたので調べてみると とんでもない道だったことが分かった。

別名「那須基線」というらしい

 

【那須基線】

明治11年に設置された「測量基本線」のことで、明治政府が欧米の測量技術を導入して国土の正確な地図を作製するために、内務省主導のもとに三角測量の最初の一辺を定めた線らしい。

線なので両端が存在し、A点(起点) B点(終点)とすると

A点は大田原市南部 B点は千本松牧場のあたり

A点B点に高い木櫓(観象台という)を組んで進める際の目印とし、定規をつなげて図ったらしい。

10キロもの区間 大きな起伏もなく直線が確保しやすいという条件に【那須野が原】がマッチしていたことがここに基線を設置した最大の理由である。

 

そーいえば

オラも高校のとき三角測量をやったが、簡単に説明すると

最初の一辺(両はじ)を定め正確に距離を測れば、第3点地(目標点)は基線からの角度を測るだけで測量できる。

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A点-B点間を定めることで、C点ーD点間の新たな基準線を設置

その後E点、F点を計測……… 

これを何度も繰り返すことで三角を増やしてゆき網の目ように全国を測量できる。

Photo_6

(図は国土地理院HPより)

だが…

残念ながらこの【那須基線】

全国測量の基線としては使われなかった。

なぜなら、当時は精密な地形図は軍事上の最高機密であった為、最終的に陸軍が定めた相模原基線が採用され、この那須基線は採用されなかったのだ。

しかしその正確な直線路はその後那須野が原開拓の基準線として役に立ったのである。

そして現在も渋滞知らずの抜け道として……

   

知らなかった。。。。 そんな由来があったなんて。

知ってれば…… 立ち●ョンなんかしなかったに。。 (爆)

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それでは【那須基線】

その足跡をたどってみる

2012年6月9日(土) 雨 しかもザーザー降り

・調査隊長 カブパパ(あと13年で定年)

・隊員    カブママ(疲れ知らず)

スタートはこの辺から

1

↑へんな名前の通り(笑) なんだよ! なんじゃもんじゃって。。

2

↑事前調査では正面の森に 観象台跡(南端)があるらしい

 

森の手前を右に入る。運送屋さんのカド

4

↑意外とあっさり あった。。

  

3

6

↑これが観象台の跡  標識は鉄の蓋の下にあるらしい。

 もちろん現在は使われておらずいわゆる「史跡」扱い

観象台というからには「天体観測」にも使われていたようだ。

 

5

↑その横には 現役の三等三角点がある。

 ※三等三角点とは   設置間隔は4㎞ 全国に32,000点設置 

  2万5千分の一の地図作成に使用される。

  

Photo_4

↑現在地

  

それでは直線10キロの旅に出発!

ひたすらまっすぐ どこまでもまっすぐ

 

7

↑この先の右カーブを曲がって 直線が始まる

 

9_1

↑実取(みとり)入口の交差点

 

Photo_5

↑現在地

 

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↑国道461号(通称 野崎街道)との交差点

Ikku_2

↑現在地

  

 

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↑新幹線高架の手前 下を走るのは東北本線(宇都宮線)

Photo_12

  

  

12

↑県道306号との交差点  左のスタンド 以前はシェルだった。

 

144

↑国道4号線との交差点 (二区交差点)

R4 

↑現在地

   

15

↑ 三区セブンイレブン付近

  

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↑4区 養蚕神社付近

 

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↑道が細くなる 

この手前でライスラインは大きく右に曲がり、上赤田交差点で国道400号と合流する。

Photo_14  

↑現在地

 

 

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↑高速道路高架手前

Photo_10

 

19

↑高速の高架を潜ると 畜産草地研究所の東門

【侵入禁止】につき直進するのは諦める。

遠くまで基線が伸びているのが確認できる

Photo_11

↑ 上図の赤線のように 研究所内を通りぬけている

 

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↑畜産草地研究所内 柵からカメラを突出し撮ってみた。

 正面の森の奥まで基線が伸びている

 

ここで一旦国道400号線に出て 畜産草地研究所の正面入口から

ほんのちょっとお邪魔する  ← ココ重要

 

ついに【那須基線】の最終ポイント 北端に到着する。 

21

↑基線終わり 正面の林の先は 千本松牧場

 

そして観象台(跡)を探す。

この地点が基線の北端だから、近くにあってもいいはずなのだが、周囲を見回してもソレらしきものが見つからない。

”ほんのちょっとだけ” 研究所内にお邪魔して林の中を探す。

カブママ調査員は国道400号沿いを探す。

  

雨が強くなってきたので足もとはドロドロ。。

スニーカーは浸水してブカブカして気持ち悪い。。

「あ~ どこにあんだよ~」(;;;´Д`)ゝと困っていたところ

カブママから着信、「カブパパ体長 あったよ~ すぐ来て~」

  

場所は【畜産草地研究所】の正面入口らしい。

  

なんと 国道沿い。。 塩原行くときは絶対通るじゃん。。 

知らずとはいえ何度この前を通り過ぎていたことか。

  

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↑ちょうど入口の左側にあった。。  (右は千本松牧場)

 

これが北端の観象台跡

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↑ 高さ1メートルの塚状  まるで古墳のような佇まいである。

 

26

↑傍らには水準標があった。 案内板によると以前はこの位置から南東50メートルの位置にあったと記されていた。

通常、水準標は移動しないので現在は使われていない可能性が高い。

 

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↑ 那須基線北端から いままで辿ってきた道を振り返る

 今更ながら、この道がはるか10キロの彼方まで直線であることに改めて深い感慨を覚える。

 

この道が作られたのが 明治11年(1878年)

戊辰戦争という全国を巻き込んだ内乱から10年しか経っておらず、この栃木県内でも戦禍による荒廃と混乱から立ち直りの兆しが見えてきた時期である。

急速に西洋化を推し進める明治政府の方針とはいえ、よくぞこの荒涼とした台地に手作業で10㎞もの直線路を引いたこと。驚愕に値する。

 

当初の目的が果たせたので、カブママとお疲れさん会 

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↑千本松牧場売店

せっかくここまで来たので「恒例の」ソフトクリームを戴く。

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↑寒かったけど……美味しかった!

  

【編集後記】

今回の調査 道のカタチとしては「ただの直線」であり、しかもほとんどが現道として転用されており廃線跡のような「ノスタルジック感」は希薄であったが、風景を横目にクルマを走らせていると現代日本の黎明期における明治人の力強さをヒシヒシと感じることが出来た。

その後この道は明治中期から昭和初期にかけ、那須疎水引設の主要な物站道として活躍の場が与えられることになる。

長くなるので…

その話はまた今度。

 

どーやら風邪ひいちゃったみたい。ルルゴールドのんで寝よう(@Д@;

ゴホゴホ(||li`ω゚∞)

 

 

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2012年6月 8日 (金曜日)

カモン!

   

   

視聴率が低迷してるNHK大河ドラマ「平清盛」

最初からから兵庫県知事から「映像が汚い」とかクレームが入り

散々なスタートとなったしまった。

 

それと 視聴率

「歴代最低」だとか「10%をきる」だとか…

視聴率は、不特定多数が「どれぐらい観てるか」の数字なので、好きで観てるオラ個人的にはどーでもいい。

 

それにしても不人気。。。。

   

一方で ドラマとは別に

前々から気になっていたことがあって、平家の家紋って

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          丸に揚羽蝶

ドラマのオープニングで 弓を引く清盛の後姿に登場する  

 

平氏もいろいろいるが、特に清盛の流れをくんだ家系は

だいたいこの家紋だ。

  

実はカブ家もこの家紋。

 

つーことは オラは

もしかして清盛の子孫か?

 

栃木にはユーメイな「平家落人の里 湯西川」を筆頭に落人伝説を持つ集落が多いので、もしやと思ったが、

オラ ちっちゃいときから「ウチは源氏の子孫だ」と亡くなったじーちゃんから聞かされていた。

現に江戸時代あたりまではサムライとして誰に仕えていたか、はっきりしてる。

もちろん源氏流のサムライとして。

  

いろいろ調べると、この家紋(丸に揚羽蝶)は

平氏(清盛流)以外に 源氏も用いていたことがわかった。

清和源氏流の中川、池田、逸見、窪田の諸氏、宇多源氏の建部、間宮、喜多村の諸氏、

ほかにも藤原氏流の諸家も蝶紋を用いている。

  

源平関わらず武門が好んで用いていた家紋のようだ。

  

まあ どっちにしろ 悪い気はしない。

  

なんだか大河ドラマ観るのが楽しくなってきた( ^ω^ )

 

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2012年6月 7日 (木曜日)

ローライダー日記30 ドコドコ感がキモチエ~

  

カブママはお出かけ、ひとりになっちゃったので

久々のローライダー出動! 

気になっていたタイヤ空気圧調整のためタイヤ館にやってきた。

 

スタッフのKちゃん。かわゆいlovely

120602

ちっこいから ローライダーがデカくみえるよ。

F:2.2  R2.8 ちょい高めの設定

  

環状線を流して ドコドコ感を楽しんだ。

特別重くは感じなかったが、音がウルサイ`;:゙;`;・(゚ε゚ )ブッ!!

 

最近オフ車ばかり乗ってるから

シートは硬くて痛いのが当たり前になっていたが

やっぱりいいね~~! ラペラのシートは

高級ソファーに座ってる気がする(*^-^)

 

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↑鬼怒川のあぜ道にて一服

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↑昨年からドラッグバー仕様したためかなり前傾姿勢。

アップハンドルでゆったり乗るのもいいが

オラ的に チンタラ走るのは性に合わないので

しばらくこのままでいよう。。

 

やっぱりいいね ローライダー(v^ー゜)!! 

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2012年6月 5日 (火曜日)

廃線を訪ねる 東武鉄道日光軌道線

2012年6月14日加筆修正

唐突だが 

 

下の写真見て ココがどこかわかる人はかなりの日光通

Photo  

東武博物館において、2010年10月から2011年1月まで開催された

「なつかしの日光軌道展」からの一枚である。

場所はもちろん 神 橋

 

日光に行けば必ずこの場所を通る。

それぐらいこの神橋は、東照宮とならんで日光のシンボル。 

ある意味、シンガポールの変なライオンよりもメジャーかも

 

上の写真見て なんとなく違和感があるだろう

それもそう 現在は線路などない ましてや

日光市内に路面電車が走っていたなんて

とても…信じられなかった。。。

   

地元民として、軽く日光のことを触れとくと

・日光東照宮を戴く徳川幕府の聖地として

・有史以来二荒山 山岳信仰の中心地として

・そして1999年の世界遺産登録

・2社1寺を中心とした華麗なる宗教建築の集積地として

様々な顔を持つ。

そして なによりも日光市民の住む町である。

  

それでは例によって例のごとく 

ヒマな2人で 忙しい中 現地調査を実施したのでレポートする。

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【調 査 概 要】

上の写真は 東武日光軌道線といい

栃木県日光市の日光駅前から馬返を結んでいた、路面電車である。

1968年(昭和43年)に廃止されるまで、

観光客、市民、通勤 それぞれの交通手段として

「日光電車」の愛称で親しまれた。

 

運行路線は以下のとおり

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↑赤い点線が路線軌跡  営業キロは(10.6㎞) 全線電化

 

歴史は 

・1908年(明治41年) 日光町と古河合名(古河電工)の合弁で開業

・1910年(明治43年) 日光電気軌道により日光駅-岩ノ鼻間 開通

・1913年(大正2年) 岩ノ鼻-馬返間 開通により最大長となる 

・1928年(昭和 3年) 東武鉄道傘下に入る

・1953年(昭和28年) 新型車導入 戦後の旅行ブームで客数最大に

・1965年(昭和40年) 第二いろは坂と金精峠開通 一気に客数減

・1968年(昭和43年) 1月 運輸審議会が廃止許可が適当とする答申

     同年     2月25日全線廃止

ちなみに廃止時の「日光駅前-馬返」間の運賃は70円だった。

  

余談だが昭和43年時の70円の価値は

かけそば一杯  週刊誌 ハイライトが買えた。

とても庶民的な価格設定であった。 

  

駅(停留所)は19箇所あり

その多くは国道119号、国道120号沿いに存在した。

一部は古河電工敷地内に存在し、通勤者の交通手段としても重要だった

  

能書きはこれくらいにして 探索をスタートする

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2012年6月3日(日) くもり

 

調査員は

カブパパ (年齢詐称)

カブママ (年齢不詳) の2名

 

スタート地点の JR日光駅に降り立つ

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相対式2面2線の地上駅 1890年(明治23年)開業だが

現在の駅舎は1912年(大正元年)のもので ちょうど100年。

多くの歴史を見守ってきた風情ある建屋である。

  

歴史ある廃線跡を探索するに相応しいスタート地点である。

   

【日光駅前から神橋まで】  

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出発点の日光駅前には上の図で示すようにループ区間となっていた。

国鉄日光駅前、東武日光駅でそれぞれ客をのせ 

現在の国道119号線(いわゆる日光街道)の真ん中を走っていた。

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↑東武鉄道日光駅  現在の駅舎は1979年(昭和54年)に改築

この横断歩道付近が路面電車の停車場だった

  

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↑ JR日光駅と東武日光駅前の道路

道路と並走するかたちでループ線があった。

 

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↑東武日光駅前ロータリー

休日ともなると多くの観光客で賑わう。

ループ線区間の中心部と思われる。

 

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↑石屋町付近から神橋方面へ

 中央の黄線あたりが線路だった

ここから神橋まで数か所の停留所があり市民の足として活躍していた

 

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↑御幸町付近

ここに東武鉄道日光軌道 最大の遺構である

架線柱が現存している。

なぜここだけ撤去されなかったのは謎である。

 

 

やがて日光金谷ホテルを左に過ぎると

今回のレポートのきっかけとなった神橋があらわれる。 

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↑多くの観光客で賑わうこの橋のたもとには

線路を通すための橋脚跡が現存する

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 ↑昭和初期の写真と思われる 

Photo_32   

↑ 赤い点で 当時の鉄橋を描いてみた。

手前のコンクリート塊と川向こうの神橋袂のコンクリート塊が橋脚跡。 

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↑ 上面からみると 大谷川に対してななめに架橋されていた 

   

加筆

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 ↑日光市HPより 輪王寺側から日光市内を写す。

 画像左に車道(歩道) 中央に軌道 そして右端が神橋である。

    

【神橋から日光高校まで】

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↑ここからは現道(国道120号線)に沿って軌道が敷かれていた

 

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↑本町のコンビニ付近

軌道は右車線あたりを走っていた

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↑田母沢御用邸付近

 この先 田母沢川橋に中央分離帯があり、軌道遺構が存在する

 

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↑中央の赤い鉄骨が日光軌道橋梁跡である

 一見、道路の真ん中を走っていたように見えるが、

当時は鉄橋と人車橋は分かれていた。

 

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↑軌道は安良沢橋手前Y字路を右折する

   

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 ↑一旦右折して70メートル進んだ後 鉄橋を渡り現道に戻る

現道に再合流する地点は 現在とある団体の施設があり

取材することは難しかった。  

  

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↑現在の荒沢(安良沢)橋

使われなくなって44年 今もひっそりと現存している。

 

【清滝 古河アルミ付近】

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清滝への分岐点 300メートル手前に停留所跡

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↑ ひっそりと置かれたベンチ 半分は朽ちている。

 藤棚柱には「時刻表」らしき鉄板が張ってあったが判別不明

 

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↑清滝1丁目付近  

左が国道120号(清滝バイパス)  右が清滝方面

軌道はここを右に入っていく

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↑昭和初期の古河アルミ前  写真奥が馬返方面  

軌道線が道路左に走っている。

  

清滝町に入った軌道だが

この先 複雑な進路をとる

 

【清滝桜ヶ丘から古河電工日光事業所】

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A地点 (桜ヶ丘)で現道をそれる

 

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↑ A地点 この分岐を右に入る

 

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B地点 この真ん中を軌道が走っていた

  

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↑ C地点 清滝通りに再合流

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↑D地点 清滝郵便局手前  

赤い線で示した方向に軌道が向かっていた。

一旦 古河電工の敷地内を走る

 

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↑ E地点(工場西側) 現在はこうして壁に仕切られているが

 赤線のように軌道が続いていた。

S24

↑ E地点 古河電工西の軌道跡 この先は馬返方面

   

 

【国道120号合流から 馬返方面へ】

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ここから清滝通りへ合流する

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↑A地点 修理工場付近 ここで合流し右方面に、向う

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↑B地点 軌道跡はまっすぐ正面を進んでいた

現在は一方通行となっており 左にしか進めない

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↑軌道跡を示すコンクリート製のガードレールが現存している

 

 

【豊川稲荷から馬返】

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そろそろ終点の馬返が近づいてきた。 

この辺は単調な直線路が続く。

白いクルマのあたりが停留所

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↑ A地点 豊川稲荷付近  軌道は右車線あたりを走っていた

 

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↑B地点 馬返駅周辺 

 

S31

↑ 駅舎跡地には このような枕木が刺さっている

S30

↑ 現在 駅舎跡は柵で囲われている

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昭和初期の馬返駅舎

 

Photo_29

↑昭和12年ごろの馬返駅  

日光軌道線の終点であるとともに

日光鋼索鉄道(ケーブルカー)の起点であった

大谷川を渡る鉄橋が見える。明智平までケーブルカーが走っていた。

  

この馬返駅 実はつい最近まで残っていた。

いや正確には オラが子供の頃 たしか小学2年生あたり(昭和48年)

なんかの駅ぽかったが 当時はまったく関心が無かった。

   

こうして日光軌道の本線 9.7㎞を辿ることができた。

 

事前調査で多くのHP、ブログを参考にさせていただいた。

なかでも 日光市図書館の資料が一番胸にジーンときた。

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1968年(昭和43年)の日光市広報

市民に惜しまれながらも廃線となる日光軌道線の

最終運行(ラストラン)ニュース

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↑ 記事を読むと 市民に愛されたことがわかる

廃止になって44年経つが

現在 50歳以上の方には乗った記憶や見た記憶があるだろう。

加筆

39630

↑空から見た日光市(昭和39年6月 広報にっこう)

日光街道ド真ん中を走る軌道と乗用車の様子がわかる。

      

線路なき今 当時の雄姿を留める軌道車が現存する。 

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↑日光軌道203号  現在は東武博物館に保管されている 

車体の特徴からも 最終運行をしたものと同型であると思われる。

  

【編集後記】

 

帰り道 カブママと話した

「なんで路面電車やめちゃったんだろね」

「そーだね」「もったいないね~」

「今 走ってたらカッコイイのにね~」 

  

!!

 

そーなんだよ

「今 走ってたらカッコイイのに」!

 

だめだよね~ なんでも効率化で無くしちゃうのは。

観光資源ってのは 残して維持することが大切なんだから……

 

そこだけ残念だった。。。

 

帰りにカブママがお土産を買った

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↑金谷ホテルベーカリー  ホテル真下の直売所

客は外人ばかり。

Photo_36 

↑人気のパンは売り切れていた。。。

でもシナモンロールを買ってきた。

金谷というだけで「スゲー! ウメー!」と感じる

これも日光の不思議さだろうか。。。。

  

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