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2012年5月21日 (月曜日)

廃校をゆく 梶又小学校 石裂小学校

  

先日の栃木県塩谷町立熊ノ木小学校分校調査に引き続き

今日も廃校探索を行った。

    

そもそも 一口に「廃校」といってもその理由は様々である

 

指摘される理由といえば

①過疎地域における就学人口の減少

②学校制度の改革による統廃合

③「昭和の大合併」による学区再編成

④入学児童(生徒)の減少による経営資金難 (私学)

⑤行政の都合による廃村に伴う廃校

 

上記 代表的なものを挙げてみたが、

今回は 訪れた順番に

⑤の 行政の都合による廃村に伴う廃校

①の 過疎地域における就学人口の減少

上の2つの理由により廃校となった2校を訪ねた

   

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5月20日(晴)

   

129年ぶりともいわれる金環日食に湧く宇都宮を後に

鹿沼市西部 上南摩地区に向かってクルマを走らせる。

 

本日の調査は オラ、カブママ古、そしてカブパパ父の3人

ちなみにカブパパ父(今年73)は顧問として参加

※職業は社長、身分は大学生である(シルバー大学2年生)

Photo_2

 ↑ 調査対象の2つの廃校を○で囲ってみた

 上の○が石裂(おざく)小学校  下の○が梶又小学校である。

航空写真で見ると 鹿沼市の中心部から10キロ以上山の中

一見 どちらも過疎による廃校と思いきや

この2つの廃校理由には明確な違いが存在する。

 

最初に訪れたのが「梶又小学校」

正確には 梶又小学校跡地である

 

この小学校は

先に述べた「行政の都合による廃村に伴う廃校」である

行政の都合とは

南摩ダム建設に伴い室瀬地区周辺が水没するためで

要はダムの底に沈んでしまうので壊してしまうということ。 

   

この南摩ダム 簡単に解説すると1964年の構想である。

思川開発の中核ダム建設事業である。

【建設目的】

思川流域の洪水調節、首都圏栃木県南部の水需確保。

流域河川に頭首工を設置して導水路で繋ぎ、効率的な水運用を図るというもの。

また水源依存をダムに転換することで、地下水汲み上げによる地盤沈下を防ぐという目的が発表された。

 

【ダムの規模】

中央土質遮水壁型ロックフィルダム

当初計画では 提高115メートル、総貯水容量142百万トン。

利根川水系では八木沢ダム、下久保ダムに次ぐ第三位の巨大ダム

 

【現状】

2001年、水没する76戸の保障交渉が妥結し、地元の代替地や宇都宮市への移転が完了したが、移転対象ではない3戸(ダム建設予定地直下流)が反対運動を続けている。

 

この頃は公共事業見直しの機運が高くなっており、東大芦川ダムも2003年当時の福田県知事の決断により建設中止となった。

こうしたことからも「思川開発」の中核として南摩ダムも建設継続の可否を巡る議論が展開され現在も、賛成派、反対派の狭間で揺れている。

利根川水系における最後の水資源機構事業として、同機構は平成22年の完成を目指しいたが、移転住民への代替地住宅造成、公民館建設、県道付け替え工事を実施しているものの、

ダム本体の築堤工事には着手していない

 

  ↑↑↑ 重要なのはこの部分、

 

まだ ダムは完成していない。

廃校、廃村、廃道、いっぺんにすべて見れるわけだ。

Photo_6

↑ 南摩ダム(予想図)と周辺河川

 

現場に到着するまでは

人っ子ひとりいない

荒涼とした山間部を想像していた。

  

それではスタート

東武鹿沼線樅山駅の西から県道15号線(鹿沼足尾線)を3キロ

南摩小学校の先を右折し県道177号(上久我都賀栃木線)を北進

田舎の県道にありがちな立派な2車線道路を西進

やがて一つの小学校が目に入った 

 

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↑鹿沼市立上南摩小学校

目的地の「梶又小学校」から転校を余儀なくされた子供たちが転校した小学校である

 

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↑途中には「ダム建設反対」の看板も

 この先に見える狭地の先がダム提体建設予定地である

 

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↑ ま新しい石碑があった。

どうやらこの300メートル上流にあった神社が水没を逃れるため

移転してきたらしい。

 

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↑ ご神体は木造の祠の中

灯篭自体は古そうだが礎石は最近のもの

 

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↑提体建設予定地の付近

すでに県道付け替え道路のトンネルが完成していた

重機も数台ある。トンネル内の吹付工事か?

 

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↑今日の南摩川は豊かな自然を象徴するかのように水量豊かである 

手ですくって飲めるくらい透き通っている。

 

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地形からいってこの辺りがロックゾーンの最下部

↑ このまま工事が進んで、数年後にはこの辺りがダムの底になる

  

工事業者のHP 完成予想図があった

Photo_5

こうなる予定。。

 

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↑北側斜面にも県道付け替え工事が見える

あの橋付近まで水位があがるわけだ。

 

さらに進むと一気に工事現場が多くなる

まさにダム底を進む道

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↑ダム予定地はこの画像右上に見える峰あたり

 

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↑ 上流から集めてきた水の誘導管

 

この周辺は広大な平地となっており、建物の基礎と思われるコンクリート塊を目にすることができる。

 

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↑こんな看板も。。。

「ゴミ捨てるな!」はよくあるが、「動物捨てるな」とは……

 日本人のモラルも落ちたものだ。。

  

資料ではこの周辺に「梶又小学校」があったとされる。

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 ↑遺構らしきものは確認できず。

Photo_7  

↑過去の資料、当時の写真からこの場所だと推測する。

  

Photo_3

在りし日の 梶又小学校

日本の原風景を思い起こさせるような校舎である。

・学校名 鹿沼市立梶又小学校
・住 所 鹿沼市上南摩町1083-1
・開 校 明治17年
・廃 校 平成16年3月 120年存続
・現 状 解体され更地 南摩ダム建設に伴い室瀬地区周辺が水没するため

 

すでに解体済みだったので廃校舎は確認できなかった。

残念だったが、それ以上に残念なのは

この豊かな自然がダムの底に沈むこと。

鳥の声、風の音、小川のせせらぎが

廃村の新緑に負けじと生命の息吹きを感じさせてくれた。

  

 

 

 

続いて 石裂小学校に向かう

 

さっき通った「ダム底の県道」177号をさらに北進

やがて県道240号とのT字路を左折

狭い山道を3キロほど行くと その廃校がある

こちらは「過疎地域における就学人口の減少」により廃校

つまり 通う子供がいなくなった ということ

言い換えれば「若い夫婦が住んでない」

町に出てったまま戻ってこない。 

田舎のよくある光景である。

 

石裂小学校

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 ↑現在 校庭はバス停に使われている。 

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↑明治の石碑  門柱の跡だと思われる

 

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↑石裂小学校(おざくしょうがっこう)

・校 名  鹿沼市立石裂小学校

・住 所  鹿沼市上久我1681

・開 校  明治6年

・廃 校  昭和39年   91年存続

・現 状  公民館 (施設の一部を石裂・寄栗地区集会施設)

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↑位置図  県道のドン詰まり  登山客くらいしか来ないところ

   

こちらは校舎が残っていてよかった。。

この校舎は開校の29年後 1902年に建替えられており 

廃校時で62年使用された。 

現在(2012年)からだと110年前の校舎となる

廃校から48年経っており、完全な廃屋となっていた

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 ↑アジサイに囲まれた美しい校舎だったのだろう。

 

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教室と廊下と思われる。

 

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↑校庭の西側に 公民館(地区集会施設)が建っている

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↑父とツーショット

それにしても 

子供のいない校庭というものは寂しいもの。

数十年前まで この校庭は子供の声で賑やかだったはずだ。

   

 

気付けば 時刻は11時30分

午前中に2校の廃校探索をしたので腹が空いた

鹿沼市内に戻りソバ屋を探す

    

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↑父のおすすめのソバ屋  「みっちゃん蕎麦」

新鹿沼駅の真ん前

   

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↑ 黙々と蕎麦を打ち続けていた。

 

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↑鹿沼(粟野)名物  ニラ蕎麦

 手打ちのシコシコ蕎麦と シャキシャキの太いニラ

蕎麦の旨みと、ニラの食感がたまらない。

 

何も考えず「大盛り」頼んだが量は多かった。

とても美味しかった。 オススメ! 

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 ↑父は普通盛り 

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今日は父とカブママも含めて3人の廃校探索となった

学校というものは 地域で一番愛されているものだ。

愛すべき建物 それが校舎であり校庭。

姿は変われど こうして現代まで 残っていることが素晴らしい。

 

ダムに沈むということでなければ

せめて公民館や地域コミュニティー施設として

何年も存続してほしいものだ。

   

 

 

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