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2012年5月

2012年5月31日 (木曜日)

廃線を訪ねる 宇都宮陸軍航空廠線

  

  

25度を超える日が多くなってきた。でも木陰は涼しい

夕方7時をまわっても明るいし、

夜はちょっと窓開ければ天然クーラーが効いてる。

ホントに5月は過ごしやすい。

  

こんな時こそツーリング! と思いきや

以前から探索したかった線路跡を辿ってみた

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宇都宮陸軍航空廠線(うつのみや りくぐん こうくう しょうせん)

   

かつて東北本線宝積寺駅と旧清原村に存在した路線で

陸軍宇都宮飛行場および陸軍航空支廠を結んでいた軍用線である。

主に航空隊への物資、工員兵員の輸送を目的としていた。

  

ここで疑問、航空基地までの輸送ルートであるが

なぜ「宇都宮駅」ではなくて

「宝積寺駅」に接続したのか?である。

  

宇都宮は1907年(明治40年)、帝国陸軍第14師団が宇都宮(旧河内郡国本村)に」師団本部を設置されるや軍都として発展し、急激に軍需物資の集積量が増えた。

輸送ルートとしては、宇都宮駅から清原の陸軍飛行場まで線路を引いたほうが利便性が高いはずと思うほうが道理。

だが宝積寺駅と接続した理由としては、当時戦局の変化によりも本土内陸部への飛行場建設が必要となり、急遽陸軍主導で清原村の用地買収をしたものの、鬼怒川への橋梁建設には手間と時間がかかりすぎるという理由で、東北本線で鬼怒川を渡ったところに既存する宝積寺駅に接続した。

 

線路跡は現在も付近住民からは「線路道」「汽車道」の愛称で呼ばれ

その線路跡のほとんどが道路として転用されている。

 

---------- 歴  史 -----------------------------------

1942年(昭和17年) 敷設工事開始

1942年(昭和17年) 運行開始

1945年(昭和20年) 11月終戦に伴い廃止

 

・路線の長さ 宝積寺駅‐鐺山駅間 約11キロ

・軌道長   1067ミリ

・途中駅   なし   始点終点のみ

すべて非電化の路線であるため線路跡には架線柱は存在しない

  

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↑これが終戦後1947年(昭和22年)の陸軍飛行場

赤い線が清原軍用線である。

飛行場の西側を南北に走っている。

画像右上の長い滑走路は1500メートルあり

かつて 陸軍が誇る

キー49百式重爆撃機”呑龍”も配備されていた記録がある。

 

ちなみに滑走路周辺で白くなって写っているのが 空襲の痕跡

クレーター跡までくっきり残っている

   

そしてこれが50年後の1997年(平成9年)の清原飛行場跡

H9

 ↑すでに飛行場としての面影はない。

飛行場敷地のほとんどは、宇都宮清原工業団地として整備され

野球場やサッカー場も建設された。

 

飛行場本部や飛行学校、兵舎だったあたりには

作新大学、宇都宮清陵高校が建てられ文教地区へと様変わりした。

 

しかし、くっきりと線路跡だけは残されている(図の赤い点線)

    

70年前 戦争激化の一途をたどる激動の昭和初期に思いをはせ

廃線跡の探索をスタートした。

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平成24年5月 

調査団長 カブパパ(46)

助手    カブママ(4?)

顧問   カブパパ父(73)

  

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↑ ルートは 地図上の赤い点線を辿る(宝積寺方面に向かう)

   

Photo

鐺山(こてやま)の歩道橋  (スタート地点から南を見る)

  

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↑ ここからスタート 北向き(宝積寺方面)に進む

   

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↑100メートル進んだところ

むかって右側にホーム跡らしきコンクリート発見した

 

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↑登ってみるとプラットホーム跡確認  

明らかに手前のコンクリートと違う 

敷設から70年経っておりアルカリ骨材反応(中性化)が進んでいる、

道路側では法面にむかって欠けたコンクリート片が多数落ちている。

 

戦後すぐの航空写真では このプラットホームが

南北100メートルに渡り敷設されていた。

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↑ 現在地 

このプラットホームは軍需物資や兵員で溢れていたのだろう。

   

ここで寄り道する。

事前調査でだいたいの検討はついていたが

「この地に飛行場があったんだよ」という物的確証がほしくて

記念碑を探していたところ、”公園のどこか”にあるという情報入手

 

ただし、このあたり公園(緑地)だらけなので

とりあえず一番近い公園に入ってみる。

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↑清原工業団地 1号緑地

 

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↑公園となっている 人はまばら 

 300メートルほど歩いただろうか

 

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↑ 行幸記念碑発見 !

昭和17年(1942)年、宇都宮陸軍飛行場(宇都宮飛行学校)で行われた、関東特別演習、空地連合演習を大元帥陛下(昭和天皇)が行幸された記念に建てられた。
昭和天皇が三笠宮殿下・東条首相・杉山元帥などを伴って行幸され、パレンバンに降下急襲して、占領した陸軍落下傘部隊と地上防衛軍の大演習が行われた。

   

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↑傍らの石碑には 

昭和59年 100メートル北から現在地に移転したと掘られている

「100メートル北」とは、現在の作新学院大学女子短大

学校建設のために現在地に引っ越したらしい 

 

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↑ カブパパ父とカブママ

 

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↑現在地の緑地   もとは総務部本部発動機だったと思われる 

 

↑ 昭和17年のニュース映画

大元帥閣下(天皇陛下) 宇都宮行幸の様子を伝えている

   

だいぶ寄り道してしまった。。

再び廃線探索に戻り 宝積寺方面にクルマを走らす。

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↑ 同慶寺の300メートル手前

このへんは

「この道 もとは線路だったんだよ」と言われなければ気付かないほど

一見普通の道のようだが この真っ直ぐで平坦な道

まさに線路跡である!

  

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↑道場宿  鬼怒通り(柳田街道)との交差点

 旧道は 現道の10メートルほど手前にある

本田技研工場進出に伴い、芳賀地区への交通量の増加に合わせ拡幅工事が重ねられ現在のルートとなる。

 

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↑ 線路図と重ねてみると 

 右手に写っている工場の壁付近を走っていたらしい。

 

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↑テクノ通りとの交差点

 余談だが、いまだもってテクノ通りの意味が解らない。。

東に本田技研の研究施設・工場があり 付随する工場施設関連会社が林立するが、この辺はただのド田舎である。

線路があったころは ただの原っぱだったに違いない。

 

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↑ 清原北小学校の手前 

この辺はおよそ400メートルに渡って 車道と側道が同じ幅である。

もちろん廃線跡は左側だが、道路幅以外の線路跡を示す痕跡は見られない。

  

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↑高根沢に入る  県道10号線(宇都宮―烏山線)の交差点

 目的地の宝積寺駅までは1500メートル地点

 

交差点の先で二股に分かれる  クルマで通るとわかりずらい

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↑ 現道は右だが 線路跡は左

 手前の緑地から旧道方面に真っ直ぐ線路が走っていた

 

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↑今はほとんど人通りも無い

 

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↑旧道の出口

線路跡は正面の緑地を突っ切って宝積寺駅まで伸びていた

この先700メートル進むと 東北本線との合流地点

   

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↑高根沢西小学校付近の踏切

 このあたりから左の東北本線と並走していた。

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↑ 正面に見えるのは宝積寺駅 (200メートル先)

線路跡は現在 遊歩道と自転車置き場となっている

(画像中央の赤い舗装路)  ※自動車侵入禁止

 

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↑宝積寺駅  

清原線のホーム跡が歩道となっているのがよくわかる

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↑ 現在地  宝積寺駅に隣接するJAしおの阿久津支所の一部も線路跡だったと推測

   

敷設から廃止まで3年と10か月の短い期間であった。

 

太平洋戦争開戦より南洋で破竹の進撃をするものの

珊瑚海海戦で空母2隻を失いポートモレスビー攻略を断念した。

1942年7月ミッドウェー海戦直後の日本軍は最大勢力範囲に達したものの、それまで圧倒的優位にあった空母戦力が徐々に拮抗しはじめ、アメリカ海軍は予想より1年もはやく反撃を開始する。

本土空襲の懸念、絶対防空圏の弱体化が顕著になったころ設立されたのが「陸軍宇都宮飛行場」であり「宇都宮陸軍航空廠線」である。

まさに

戦争に翻弄された路線  

日本軍とともに散った悲しい運命を背負った路線であった。

  

  

              ― 編集後記 ―

 

余談だが 今回も参加したカブパパ父

オラと同じ遺伝子を持ってるだけに (当たり前だが)

かなりのレーサー野郎だった (クルマ専門だけど)

 

なんと

1960年夏 清原飛行場跡で開催されたレースに参加したらしい。

浅間レース終焉の後を受け、ロードレース渇望の発露となった宇都宮郊外の清原飛行場跡地。1周2.75kmの旧陸軍少年飛行学校滑走路(現在は工業団地)のコースは、砂塵の上がる走路も含まれ、視界を失ってコースアウトするライダーもいたらしい。

当時の写真(これはバイクレース)

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2012年5月23日 (水曜日)

日光・龍蔵寺の六尺藤が見ごろ!

 

 

先日、カブママ、カブパパ父と廃校探索(鹿沼)に行った際

日光市の龍蔵寺という寺に立ち寄った。

オラ的には初めて行くところで、道案内はカブパパ父

   

行くまでわからなかったが 龍蔵寺

歴史を調べてみると

この寺は江戸初期から300余年の歴史と徳川4代将軍家綱の日光社参から将軍休憩所になったという由緒がある。

現在の日光街道(国道119号線)から180メートル程東に在し

西方の八坂神社領、南方の王子神社領が控え

徳川神領圏の最南端部に位置する。

 

狭い道をくぐり抜け これまた狭い駐車場に出る。

  

さほど広くない境内いっぱいに藤棚が設置されている

この六尺藤

日光市の天然記念物に指定されており

多くの観光客を集める

 

Photo_2 

日光街道 大沢の交差点を東進し 

すれ違い不可能のゴチャゴチャした道のつきあたり

 

 

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↑ 本堂から撮った

房(花穂)の長さは四尺ほどか?  圧倒されるような重厚感である!

 

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藤にしてはぶっとい幹(直径1メートル)、古木としての風格充分

藤棚の支えがあるとはいえ 樹木全体の力強さを感じる。

  

071

↑カブパパ父 カブママ 

 こちら側(西側にあたる)はさほど長くない

それでも80センチ~100センチある

  

ひと言でいえば「まことに立派な藤である。」

 

この藤も

最初は明治時代 当時の住職が植えた山フジに

昭和になって房の長いフジが接ぎ木されたようだ

その名のとおり最盛期には六尺(180センチ)あったそうだが

近年樹勢の衰えから短くなってきている。

樹齢100年を超え幹の直径も1メートル

200平米に枝を広げる 「六尺藤」

必見である。

見頃は5月末~6月上旬  入場料・拝観料はなし

   

  

― 後記 ― 

そーいえばこんな写真が。。

068

ここにも行ってきた

カブパパ父にとっては37年ぶりとなる

熊ノ木小学校 西高原分校 (現在 高原公民館)

校庭脇の飛びタイヤは やっぱりカブパパ父が埋めたものだった 

 

  

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2012年5月21日 (月曜日)

廃校をゆく 梶又小学校 石裂小学校

  

先日の栃木県塩谷町立熊ノ木小学校分校調査に引き続き

今日も廃校探索を行った。

    

そもそも 一口に「廃校」といってもその理由は様々である

 

指摘される理由といえば

①過疎地域における就学人口の減少

②学校制度の改革による統廃合

③「昭和の大合併」による学区再編成

④入学児童(生徒)の減少による経営資金難 (私学)

⑤行政の都合による廃村に伴う廃校

 

上記 代表的なものを挙げてみたが、

今回は 訪れた順番に

⑤の 行政の都合による廃村に伴う廃校

①の 過疎地域における就学人口の減少

上の2つの理由により廃校となった2校を訪ねた

   

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5月20日(晴)

   

129年ぶりともいわれる金環日食に湧く宇都宮を後に

鹿沼市西部 上南摩地区に向かってクルマを走らせる。

 

本日の調査は オラ、カブママ古、そしてカブパパ父の3人

ちなみにカブパパ父(今年73)は顧問として参加

※職業は社長、身分は大学生である(シルバー大学2年生)

Photo_2

 ↑ 調査対象の2つの廃校を○で囲ってみた

 上の○が石裂(おざく)小学校  下の○が梶又小学校である。

航空写真で見ると 鹿沼市の中心部から10キロ以上山の中

一見 どちらも過疎による廃校と思いきや

この2つの廃校理由には明確な違いが存在する。

 

最初に訪れたのが「梶又小学校」

正確には 梶又小学校跡地である

 

この小学校は

先に述べた「行政の都合による廃村に伴う廃校」である

行政の都合とは

南摩ダム建設に伴い室瀬地区周辺が水没するためで

要はダムの底に沈んでしまうので壊してしまうということ。 

   

この南摩ダム 簡単に解説すると1964年の構想である。

思川開発の中核ダム建設事業である。

【建設目的】

思川流域の洪水調節、首都圏栃木県南部の水需確保。

流域河川に頭首工を設置して導水路で繋ぎ、効率的な水運用を図るというもの。

また水源依存をダムに転換することで、地下水汲み上げによる地盤沈下を防ぐという目的が発表された。

 

【ダムの規模】

中央土質遮水壁型ロックフィルダム

当初計画では 提高115メートル、総貯水容量142百万トン。

利根川水系では八木沢ダム、下久保ダムに次ぐ第三位の巨大ダム

 

【現状】

2001年、水没する76戸の保障交渉が妥結し、地元の代替地や宇都宮市への移転が完了したが、移転対象ではない3戸(ダム建設予定地直下流)が反対運動を続けている。

 

この頃は公共事業見直しの機運が高くなっており、東大芦川ダムも2003年当時の福田県知事の決断により建設中止となった。

こうしたことからも「思川開発」の中核として南摩ダムも建設継続の可否を巡る議論が展開され現在も、賛成派、反対派の狭間で揺れている。

利根川水系における最後の水資源機構事業として、同機構は平成22年の完成を目指しいたが、移転住民への代替地住宅造成、公民館建設、県道付け替え工事を実施しているものの、

ダム本体の築堤工事には着手していない

 

  ↑↑↑ 重要なのはこの部分、

 

まだ ダムは完成していない。

廃校、廃村、廃道、いっぺんにすべて見れるわけだ。

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↑ 南摩ダム(予想図)と周辺河川

 

現場に到着するまでは

人っ子ひとりいない

荒涼とした山間部を想像していた。

  

それではスタート

東武鹿沼線樅山駅の西から県道15号線(鹿沼足尾線)を3キロ

南摩小学校の先を右折し県道177号(上久我都賀栃木線)を北進

田舎の県道にありがちな立派な2車線道路を西進

やがて一つの小学校が目に入った 

 

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↑鹿沼市立上南摩小学校

目的地の「梶又小学校」から転校を余儀なくされた子供たちが転校した小学校である

 

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↑途中には「ダム建設反対」の看板も

 この先に見える狭地の先がダム提体建設予定地である

 

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↑ ま新しい石碑があった。

どうやらこの300メートル上流にあった神社が水没を逃れるため

移転してきたらしい。

 

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↑ ご神体は木造の祠の中

灯篭自体は古そうだが礎石は最近のもの

 

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↑提体建設予定地の付近

すでに県道付け替え道路のトンネルが完成していた

重機も数台ある。トンネル内の吹付工事か?

 

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↑今日の南摩川は豊かな自然を象徴するかのように水量豊かである 

手ですくって飲めるくらい透き通っている。

 

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地形からいってこの辺りがロックゾーンの最下部

↑ このまま工事が進んで、数年後にはこの辺りがダムの底になる

  

工事業者のHP 完成予想図があった

Photo_5

こうなる予定。。

 

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↑北側斜面にも県道付け替え工事が見える

あの橋付近まで水位があがるわけだ。

 

さらに進むと一気に工事現場が多くなる

まさにダム底を進む道

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↑ダム予定地はこの画像右上に見える峰あたり

 

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↑ 上流から集めてきた水の誘導管

 

この周辺は広大な平地となっており、建物の基礎と思われるコンクリート塊を目にすることができる。

 

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↑こんな看板も。。。

「ゴミ捨てるな!」はよくあるが、「動物捨てるな」とは……

 日本人のモラルも落ちたものだ。。

  

資料ではこの周辺に「梶又小学校」があったとされる。

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 ↑遺構らしきものは確認できず。

Photo_7  

↑過去の資料、当時の写真からこの場所だと推測する。

  

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在りし日の 梶又小学校

日本の原風景を思い起こさせるような校舎である。

・学校名 鹿沼市立梶又小学校
・住 所 鹿沼市上南摩町1083-1
・開 校 明治17年
・廃 校 平成16年3月 120年存続
・現 状 解体され更地 南摩ダム建設に伴い室瀬地区周辺が水没するため

 

すでに解体済みだったので廃校舎は確認できなかった。

残念だったが、それ以上に残念なのは

この豊かな自然がダムの底に沈むこと。

鳥の声、風の音、小川のせせらぎが

廃村の新緑に負けじと生命の息吹きを感じさせてくれた。

  

 

 

 

続いて 石裂小学校に向かう

 

さっき通った「ダム底の県道」177号をさらに北進

やがて県道240号とのT字路を左折

狭い山道を3キロほど行くと その廃校がある

こちらは「過疎地域における就学人口の減少」により廃校

つまり 通う子供がいなくなった ということ

言い換えれば「若い夫婦が住んでない」

町に出てったまま戻ってこない。 

田舎のよくある光景である。

 

石裂小学校

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 ↑現在 校庭はバス停に使われている。 

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↑明治の石碑  門柱の跡だと思われる

 

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↑石裂小学校(おざくしょうがっこう)

・校 名  鹿沼市立石裂小学校

・住 所  鹿沼市上久我1681

・開 校  明治6年

・廃 校  昭和39年   91年存続

・現 状  公民館 (施設の一部を石裂・寄栗地区集会施設)

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↑位置図  県道のドン詰まり  登山客くらいしか来ないところ

   

こちらは校舎が残っていてよかった。。

この校舎は開校の29年後 1902年に建替えられており 

廃校時で62年使用された。 

現在(2012年)からだと110年前の校舎となる

廃校から48年経っており、完全な廃屋となっていた

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 ↑アジサイに囲まれた美しい校舎だったのだろう。

 

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教室と廊下と思われる。

 

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↑校庭の西側に 公民館(地区集会施設)が建っている

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↑父とツーショット

それにしても 

子供のいない校庭というものは寂しいもの。

数十年前まで この校庭は子供の声で賑やかだったはずだ。

   

 

気付けば 時刻は11時30分

午前中に2校の廃校探索をしたので腹が空いた

鹿沼市内に戻りソバ屋を探す

    

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↑父のおすすめのソバ屋  「みっちゃん蕎麦」

新鹿沼駅の真ん前

   

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↑ 黙々と蕎麦を打ち続けていた。

 

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↑鹿沼(粟野)名物  ニラ蕎麦

 手打ちのシコシコ蕎麦と シャキシャキの太いニラ

蕎麦の旨みと、ニラの食感がたまらない。

 

何も考えず「大盛り」頼んだが量は多かった。

とても美味しかった。 オススメ! 

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 ↑父は普通盛り 

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今日は父とカブママも含めて3人の廃校探索となった

学校というものは 地域で一番愛されているものだ。

愛すべき建物 それが校舎であり校庭。

姿は変われど こうして現代まで 残っていることが素晴らしい。

 

ダムに沈むということでなければ

せめて公民館や地域コミュニティー施設として

何年も存続してほしいものだ。

   

 

 

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2012年5月16日 (水曜日)

熊の木小学校 西高原分校

 

 

 

みなさんは井上陽水の「少年時代」という曲をご存じだと思う。

.♪夏が過ぎ かぜあざみ 誰の憧れにさまよう青空に残された

 私の心は夏模様~♪ 

いいね~(*^-^)

オラは この曲聞くたびに思い出すことがある。

 

実はこんなオラにも少年時代の楽しい思い出があって

夏休みに父に連れられて行った「高原分校」

 オラや弟は「森の分校」と呼んでいた。

 

今でこそ林道ツーリング、尚仁沢、ハイキングと クルマで手軽に行けるようになった高原山系だが、当時(約40年前)は道も整備されてなかった。

何故そんなところへ行ったのか? 

いまだにオラもちゃんとした理由は知らないんだけど

たぶん父が今で言う「地域ボランティア」みたいなことをしてた関係だと思う。

過疎の教育支援とか なんとか

 

オラもいい歳になって記憶が薄れてきた昨今。

細かいことは思い出せない……(ノω・、)、

でも鮮明に記憶が残っていることがいくつかあって

 

 ・やたら空が近くて青かったこと (宇都宮の空に比べ) 

 ・村の子たちに「あっ都会の子だ!」的な好奇の目で見られたこと

 ・学校裏の林のなかでターザンごっこをしてケツから落ちたこと

 ・夜は分校の教室で寝袋並べて寝たこと。 

 ・外便所が怖くて ずっとオシッコ我慢してたこと

 ・宇都宮に帰る日、村のガキ大将に記念に「ミヤマクワガタ」もらったこと

   

  

正直言ってそーいったことはしばらく忘れていたが、

最近、高原山系を訪れる機会が増えるたびに

いつかあの分校を再訪問しようと思っていた。

   

事前調べによると「高原分校」は昭和50年に廃校になったらしい

とすると もう37年経っている。。 一部を公民館で使用してるとか

(正しい校名は 塩谷町立熊ノ木小学校西高原分校)

  

さらに調べると 

「分校」というからには もちろん「本校」が存在するわけで

本校は「塩谷町立熊ノ木小学校」といい

その本校も平成11年廃校になり 現状では 

NPO運営の「星ふる学校 くまの木」として利用されていること。

  

さらに 「熊ノ木小学校」には 「高原分校」以外に

「鳥羽新田分校」 「東古屋分校」という2つの分校が存在した。

最近の地図に重ねてみると

Photo_3

   

いっそのこと全部調べてしまえ~! ということで

助手のカブママ古をつれ 高原山系にむけて出発した

2012年5月12日(土) 晴れ

高原山は今日も美しい 

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↑県道63号線から  ここから見る高原山が好きだ

   

最初に訪れたのがココ

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熊ノ木小学校 (本校)

・学校名 塩谷町立熊ノ木小学校

・住 所 栃木県塩谷郡塩谷町大字熊ノ木802 

・開 校 明治7年

・廃 校 平成11年3月 124年存続

・現 状 NPO法人運営(現 NPO法人 星ふる学校 くまの木) 

  

門柱は廃校当時のまま 校庭は砂利 

建て替えもあったにせよ124年の貫禄が伝わってくる校舎

現在は宿泊施設と体験学習の場として利用されている

特筆すべきは天体観察

「星ふる学校」の名のもととなったのは 

shine日本で一番 星空がよく見えることに由来 らしー

    

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↑ 東側の木造校舎

 画像右に見える白いドームが天体観測ドーム

 

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↑ 廃校のド定番 「二宮金次郎」先生

  

古いものだから壊すのではなく、貴重なものとして後世に存続させてゆく方針に共感する。

 

県道63号線まで戻り 落合橋を渡り 鳥羽新田方面に向かう

  

次の分校はココ 県道63号線 ほうきね神社の隣にある

鳥羽新田分校の入り口

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↑ 当時の門柱が残されている   表札は「公民館」

 

40メートルほど坂を登ると校舎が現れる 

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鳥羽新田分校

・学校名 塩谷町立熊ノ木小学校 鳥羽新田分校

・住 所 栃木県塩谷郡塩谷町鳥羽新田

・開 校 明治20年

・廃 校 昭和43年 81年存続

・現 状 一部を公民館として利用

  

廃校後45年経つが現存している建屋は校舎の一部だと推測

入り口はサッシに変更されており、内部も整理されている

公民館として利用されているのもうなずける

   

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↑さすが45年放置の貫禄 滑り台は2本あるが

上りの階段が消失。 雲梯、ブランコなどの遊具も残っているが

どれも朽ち果てていた。

 

となりは神社 いかにも歴史がありそう

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↑ ほうきね神社 (箒根神社)

高原山の山岳信仰祭神を調べると豊城入彦命が祀られている。

豊城入彦命は東国へと赴任し、上毛野臣と下毛野臣の祖となったと伝えられているのですが、この豊城入彦命を豊木、ホウキと読んだことから箒の字を当てたのではないかと推測。

※尚、ほうきね神社は塩谷町内にあと数社存在する。

 

   

次も分校跡を訪れる

Photo

東古屋分校

・学校名 塩谷町立熊ノ木小学校 東古屋分校

・住 所 栃木県塩谷郡塩谷町大字上寺島

・開 校 明治34年

・廃 校 昭和42年 56年存続

・現 状 跡地を東古屋キャンプ場、駐車場として利用されている

 

林道ツーリングの際、デポ地としてトランポを停めている場所が

まさにココ!  知らずに停めていたわけだ。。。(苦笑)

 

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↑ 画像右がキャンプ場、左が駐車場

釣りの季節には 大勢の釣り客でにぎわう

校庭跡と思われる現在の駐車場は湖面から3mも離れていない。

西荒川ダム(東古屋湖)完成が昭和43年、

当時は崖っぷちに校舎が建っていたことになる。

 

  

続いて…… そしていよいよ

 

ここからが今回調査のメインとなる 高原分校(西高原分校)である。

県道63号を鬼怒川方面に向かう。

 

途中、東荒川ダムを左に見ながら通り過ぎ 県道を1キロ北上

目印など何もないが、ナビはこの辺りを指している

  

県道63号線沿い それっぽい入り口発見

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入ってみる  途中何度か迷ったが

300メートル進んだところの三又の真ん中の道を進む

(ちなみに画面右が玉生方面 )

 

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↑ ついに着いた(≧∇≦)

 これが約40年ぶりに訪れた森の分校 「高原分校」だ!

(左側が校舎  右の一段低くなっている方が校庭)

感動して声が出ない。

いい歳こいて 震えてきたヾ( ̄0 ̄;ノ

 

校舎にたどり着く前に いくつかの遺構が現存する

ちなみに ↓↓これは 少しだけ記憶がある。。 

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 ↑教師の宿舎 だと思う。。

当時の先生は本校の「熊ノ木小学校」からの派遣で

この建屋に住み込みだった。

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↑中をのぞくと 今風にいえば2DK 風呂・トイレ付

まさに「ドクター陸のコトー」って感じである。

ガラスは割れており 畳には足跡が。

どこかのバカが侵入した形跡がある。(心霊マニアか)

 

そしてこれが校舎

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高原分校

・学校名 塩谷町立熊ノ木小学校 西高原分校

・住 所 栃木県塩谷郡塩谷町上寺島 

・開 校 昭和32年

・廃 校 昭和50年3月 18年存続

・現 状 校舎の一部を 公民館として利用

  

オラもカブママもしばらくたたずんでいた。

不思議なもので 40年前の記憶が一気に蘇ってきた

オラの記憶 そのままじゃないか!!

  

記憶と大きく異なっている点は

「えっ 校舎ってこんなに小さかったっけ??」

 

きっと子供の目には大きい校舎に写ったんだろーな。。

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 ↑ 一段低い校庭もそのまま  石垣も

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↑廃校から37年 さすがに遊具も朽ちている

 当時この遊具で遊んだと思う。。 記憶はないが…

 

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↑埋められたタイヤ  もちろん遊具としての「タイヤ飛び」の為

 よく調べたが パターン(溝) サイドのパターン名 サイズも

朽ち果てて読めないが、ブレーカーの欠け具合から

40年以上前のものと推測される。

※ 後日判明したことだが このタイヤ。

やはり父がボランティア仲間と数名で 

宇都宮から廃タイヤを運び埋めたものだった。

   

おっと忘れていた 校舎はどうなっているか…

校舎裏から中の様子を撮影する

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↑校舎向かって左の部屋

公民館として利用されているようで きれいに整理されている

この床張の教室

ココに寝袋並べて寝たんだな~~

  

そうだ あの怖かった便所はどうした…

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↑ あったよ~! 校舎の真裏に

屋根伝いに便所に入れるのだが 夜なんか怖くて怖くて…

お化けに遭遇するくらいなら 

オシッコ漏らしちゃう方がマシだ!

本気で思っていた。。。

 

 

  

たった18年しか存続していなかったことに驚く。

この過疎の地で 地域教育の中心として果たした役割は大きい。

大自然の大らかさに育まれた感受性豊かな子供たちが この小さな木造校舎から巣立っていったことを思うと 外観とは正反対の大きく立派な校舎に見えてくるから不思議だ。

そして現にこうして 「森の分校」を懐かしんで訪れる物好きもいる。

 

(オラだけど……なにか?)

 

今日は充実した一日だった

40年という時間の針が一気に回った。 回りきった

100%自己満足のレポートだったが

一番喜んでくれるのは父かもしれない。

 

この報告を 大好きな父に贈る 

 

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2012年5月 6日 (日曜日)

GWはオフで満喫!

スコルパ TY125 4Tとセローで林道ツーに行ってきた

連休唯一の晴れだった5月5日のこどもの日

行先は「西前高原林道」

詳しくはカブママ子のブログでどーぞ

「西前高原林道探検」

秘密の練習場で

↑でかいステアケースなんかないけど、オヤジにはこれで十分

あ~面白かった;:゙;`(゚∀゚)`;:゙

しかし…今年のGWは雨ばかり。。

各地では水害起きてるし  やだね~まったく(・A・)   

そして今日6日 連休最後

一日かけてマシンのお手入れ

カブママ子のセロー様もメンテする。

オラのスコルパ  酷使してるのでガタガタ∑(=゚ω゚=;)

チェーン張り、ピボットグリスアップ

ケーブルオイル注入……

それと 前から気になっていたプラグ交換

1

 ↑いいね~単気筒って(*^-^) 1本で済むし

3

 ↑ いい焼け具合

2

 ↑ NGKイリジウムに交換(7HIX)

 
 

4

 ↑ 定番のスレッドコンパウンド

5

 ↑ はまりました。

番手は#10なんだけど 結構奥まってるから

ちょっと長いプラグレンチじゃないと締らなかった。

そんでエンジンのかかりは?

バッチシでした~~o(*^▽^*)o

キック1発

音も違うね!
 

雨に祟られたけど なかなか面白い連休だった(*゚▽゚)

Photo


 

つーことで( ^ω^ )

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2012年5月 1日 (火曜日)

祝! 初ダート カブママ子セローさん

  

【最初に報告】  

え~~なんだかんだ言っても 無事に帰宅できてこそ「遊び」で 

そーいう意味では カブママ子

ダート初挑戦にして無事帰れてよかった。。(;゚∇゚)/

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(2012年 4月30日 Mon)

 

朝は恒例のカブ散歩

森林公園で時期遅れのサクラが咲いていた。

朝露で全身びっちょりのカブちゃん。。

ついでに泥だらけ

(結局カブ家全員 泥んこが大好きみたい…)

   

昼前に出発

トランポにバイク2台積み込む

下道で1時間 

お馴染みの「東古屋湖」に到着

さっそくデポ地(基地)を設営

  

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 ↑ タイダウンでがっちり固定 2台積みだとさすがに重い。

  

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↑ハイルーフだからオフ車もラクラク (ミラーは外すよ)

  こーして見ると オラのトラ車 結構腰高だね

  

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 ↑ラダーでおろす バイクが軽いから楽ちん(o^-^o)

 

015_2 

 ↑さっそく昼メシ

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↑これから入林するので ガッチリ食わないとね。。

 

03

↑食い終わった。 ミラー装着、空気圧調整して出発

(・セロー F: 1.0  R: 1.0      ・TY125  F: 0.8    R:0.7     )

 さあ~ 行くぞ! 「西荒川林道」に突入o(*^▽^*)o

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 ↑ダートをしばらく走ると 恒例の「クマ注意」 

いまだに出会ったことはない。

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↑その先は「大滝」だ。 やっぱここは押えとかないとね

   

マイナスイオンを浴びに滝壺に降りてみる。

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↑急な坂(ほぼガケ) この頃はまだ余裕ぶっこきのカブママ子

マイナスイオンが飛んでるのがわかる。 

ん? わかんねえ? 

 

 

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↑ 前回(4/10)よりも水量は少ないみたいだけど

  それでも轟々とした瀑音をたてている。

いいねココ  でもね雨上がりは怖いよ

無数の山ビルが落ちてくるからね~(lll゚Д゚)  

そーいえば「大滝」 の看板近くに1台の「KLX」が停まってた。

 

滝の落ち口に1人のオフローダーが休憩してるのが見える

ココで「同業者」を見かけたのは初めて。 

  

出発する。

第一支線を通過し、第二支線の分岐で休憩

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↑支線分岐  左に行くと「第二支線」  右は「本線」 

   

後方から「快音」が…  1台のオフ車がやってきた

挨拶すると快くとまってくれた。 お互いに自己紹介する。

地元のオフローダー「G-yuu」さん。

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↑同業者は気軽に話せる。 すごく感じのイイ方です。

 

一緒に第二支線を走る。

「G-yuu」さん 

カブママ子の落としたツーリングバッグを拾っていただいた。

ありがとうございます(._.)

10

↑ 遊び場  写真じゃわからないが この辺は丘陵で

トラ遊びには最適。 しばし3人でオフ車談義(o^-^o) 

ちなみに 

「G-yuu」さんのページ

↑ 遊び場ってこんなところ   だめだよ 良い子は入ってきちゃ

  

その後「G-yuu」さんと別れ 

オラとカブママは林道出口に向かう。

豊月平牧場を右手に 一気に県道63号まで突っ走る。

  

オラはトラ車だから速くないけど それでも60キロは出てる

カブママ子も転ばないよう頑張ってついてくる

きっとメットの中は (。>0<。) だったに違いない。。 ヒデー

  

無事 終点の県道63号との分岐到着

「八王子」ナンバーのオフ車が数台 たむろってた。 

こんな田舎までご苦労なこった`;:゙;`;・(゚ε゚ )ブッ!!   

折り返す。 また同じ道を戻る。

カブママ子も 少しは慣れたのかだいぶ乗れてきた。

 

転ばず基地に到着

  

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↑ よく頑張った。  セローは凄いね

足付き トルク 軽さ バランスがいい!

少しのらせてもらったが、林道をマイペースで走るには最高!

初心者からベテランまで人気があるはずだね~  

  

15

↑ TY125 4T   この気まぐれフランス娘 

途中でサイドスタンドのボルトが外れてブラブラしてた。。。

それにチェーンテンショナーのスプリングも外れてた。

   

山の神(女性)がイジワルしたのか。。。 カブママが走ったから?

  

Photo

↑ 上地図の黄色のラインが 今回走ったルート

次は……川俣方面行こうかな~(*^m^)

 

 

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